一門別優勝回数レース

序論

一門別優勝回数レース

 かれこれ10年以上続いている年次の「部屋データ」分析。一門ごとの一年間の動きの紹介の中で、最近は実績比較のひとつとして一門別の優勝回数を紹介するようにしている。そこから発展し、「平成相撲史」の中で平成時代に限った一門別の優勝回数の推移を振り返った。

 

 平成大相撲 一門別優勝回数

 

スタートラインの設定

 改めて昭和から通算での優勝回数の推移を追いたいと思ったが、どこを起点とするべきか。高砂、出羽海は早くから一門が築かれたが、二所ノ関も一門といえる広がりを見せたのは戦後。時津風は戦中戦後、双葉山道場時代から形成され始めた。立浪一門と伊勢ヶ濱一門も厳密にいつから連合したのかと言われれば難しい。

 

 戦前戦後、昭和前半の30〜40年間は、現在よりはるかに一門の意義は大きく、巡業も一門ごと、給料も一門から支払われていたほど。なのでその時代こそ、よりチーム対抗戦として捉える意義があるのだが、現代まで継続的に比較するなら、どこを起点にしたらいいのだろうか。

 

 やはり、どこかで線を引くならば、同一門・系統間での対戦が開始、より平等な条件が整った部屋別総当たり制導入の昭和40年初場所からだろう。この時点であれば、すでに現在の5つの集団に分化されているから、比較しやすい。一門の形骸化の発端とも言われる部屋別総当たり制導入。ここをスタートラインにするとは何とも皮肉な感じはするが、案外盛り上がるのでお付き合い願いたい。

 

 なお、現在の伊勢ヶ濱一門は、立浪一門、伊勢ヶ濱一門の連合体だった時代が長いが、終始一つの集団としてみなす。また、昭和49年から60年にかけては二所ノ関一門のうち本流に対して阿佐ヶ谷を拠点に拡大した花籠、二子山等が別一門として花籠一門を形成して親春日野政権の立場にいたが、元輪島の廃業に伴い本家が閉鎖したことで自然一門は解体した。その間も完全に切れたわけではなくて一定協力関係にはあったようで、同じ短期間の分派勢力でも貴乃花一門とは立ち位置が異なるため、ここでは独立した扱いにはしていない。

サマリー

昭和40年から令和5年までの一門別の優勝回数は以下の通り。

 

1 二所ノ関 108

2 高砂   95

3 立浪・伊勢ヶ濱 74

4 出羽海 59

5 時津風 16

※ 貴乃花 0

※ 無所属 0

 

 令和5年を終えた時点では、上記のとおり。あまり僅差のところはなく、数年間は順位変動はなさそうだ。

 二所ノ関一門が1位。初年度から一度も首位を譲らなかった。

 必死に対抗しようとする出羽海だが大鵬の6連覇で離され、北の湖時代にも差を詰めきれずにいるうちにすっかり停滞。猛烈な勢いを見せた高砂、伊勢ヶ濱に追い抜かれ最終4位。

 一時大差を跳ね返して首位目前まで迫った高砂も、終盤に大ブレーキで二桁の差となっている。

 平成中期まで最下位争いをしていた伊勢ヶ濱は、白鵬らモンゴル出身の3横綱を擁した最後の15年余りで急浮上。

 時津風は優勝を稼ぐ力士が現れず、ダントツの最下位となった。ラスト10年は健闘して年間最多タイを2度記録した

 平成22年から30年初めまで独立勢力を築き一門としても認められた貴乃花一門や、平成10年から24年に高砂一門から離脱した高田川部屋、平成末期に時津風から離脱した錣山、湊の無所属からの優勝はなかった。


前史

 大正時代から続々と横綱を輩出した出羽一門、というより出羽海部屋の天下が続いたが、昭和に入ると春秋園事件、横綱空位といった混乱を経て、関取数では圧倒的ながら、覇権は二所ノ関を率いた玉錦、ついで立浪の双葉山、羽黒山に握られていた。だが戦後彗星の如く現れた千代の山、例外的に独立を認められた栃木山の春日野部屋からは栃錦が出て復活。

 

 立浪は双葉山、羽黒山、名寄岩の三羽烏を擁し、混乱期の相撲界に君臨。その象徴的存在だった双葉山は分派してしまったが、12年も綱を張った羽黒山が継承し、30年代にかけては立浪四天王が育った。友綱系統では巴潟の高嶋部屋からは横綱吉葉山、大関三根山が出て、両者で連覇も果たした。

 伊勢ヶ濱も大勢力ではなかったが横綱照國(荒磯を経て継承)を擁して台頭、立浪と接近した。

 

 現役中から双葉山道場として独立した時津風は、伝統ある井筒を一時預かるなどそのカリスマ性から他勢力が合流。立浪から離れて新たな一門を形成し、急拡大。出世頭の横綱鏡里も粂川から部屋ごと譲られた弟子の一人だった。

 

 二所ノ関は二枚鑑札で師匠でもあった玉錦の現役死、後継の元玉ノ海の退職と激震が走ったが、雌伏の時を経て佐賀ノ花が中興を果たす。分家奨励の方針も功を奏し、花籠部屋から国民的人気横綱若乃花、佐渡ケ嶽部屋から大関琴ヶ濱が誕生した。

老舗の高砂も前田山、東富士、朝潮と横綱が続いて、一定勢力を保っていた。

 

 

昭和20年代前半 不定期ジプシー興行時代

立浪4 出羽海3 高砂2 伊勢ヶ濱1

 立浪・羽黒山の戦後4連覇が光るが、それ以外は他一門が分け合った。東冨士は富士ヶ根所属で2回。その後本家に移籍する。出羽海は8年のブランクを大関増位山が破って2度制したが、怪我で頓挫。初優勝の千代ノ山が綱取りの夢を引き継ぐ。伊勢ヶ濱の1回は照國ではなく備州山の平幕優勝。20年夏、戦火の中での7日間興行だった。

 

 

昭和20年代後半 年3場所から4場所へ

出羽海6 高砂4 立浪4 伊勢ヶ濱2 時津風1

昭和25年 出羽海1高砂1伊勢ヶ濱1

昭和26年 出羽海1高砂1伊勢ヶ濱1

昭和27年 出羽海1高砂1立浪1

昭和28年 出羽海1高砂1立浪1時津風1

昭和29年 出羽海2立浪2

 

 まだまだ敗戦後の困窮が続き、ジプシー興行を強いられる中、出羽海を中心にしつつ賜盃を仲良く分け合っている。唯一毎年優勝した出羽一門は、千代の山は横綱昇進後パタリと途絶えてしまったが、小兵栃錦が台頭して29年の連覇でついに横綱昇進。伊勢ヶ濱の照國、立浪の羽黒山が晩年期を迎えるが復活して優勝。さらに平幕時津山が全勝し、29年には高島勢が連覇し、立浪・伊勢ヶ濱合わせて出羽海と同じ6回。高砂は東富士が孤軍奮闘し毎年コンスタントに記録したが、29年は届かず。時津風には初めての賜盃が鏡里によってもたらされた。二所ノ関は未だ戦後優勝なし。

 

昭和30年代前半 年4場所から6場所への過渡期

出羽海9二所ノ関8高砂3時津風3立浪2

昭和30年 出羽海3時津風1

昭和31年 時津風2高砂1二所ノ関1

昭和32年 出羽海2高砂1立浪1二所ノ関1

昭和33年 二所ノ関3出羽海2高砂1

昭和34年 二所ノ関3出羽海2立浪1

 

 それほど特出した一門はないが、昭和30年は千代の山の連覇と栃錦の出羽が4場所中3場所。33年、34年は全て若乃花によって二所が半数を占めた。時津風は横綱鏡里が、高砂は大阪太郎朝潮が、意地を見せて、3回ずつ食い込んだ。立浪・伊勢ケ濱は、吉葉山が横綱として優勝できないまま終わって劣勢だったが、立浪四天王が台頭。安念山が新三役で、若羽黒が新大関で優勝した。

出羽、二所の二強が中心だが、他一門も見せ場があってバランスが取れていた取れていた。

 

昭和30年代後半 系統別総当たり末期

二所ノ関19出羽海6時津風3高砂2立浪・伊勢ヶ濱0

昭和35年 二所ノ関5出羽海1

昭和36年 二所ノ関3時津風(伊)1出羽海1高砂1

昭和37年 二所ノ関4出羽海2

昭和38年 二所ノ関3時津風2(時1伊1)出羽海1

昭和39年 二所ノ関4出羽海1高砂1

栃若から柏鵬へと時代は移る。

 

 二所ノ関本家が産んだ大鵬の天下となった。一時横綱として共存した若乃花は程なく引退、七若と呼ばれた花籠勢は伸び悩み、大鵬はほぼ役力士と総当たり(三役常連は大豪くらい)。そんな不利も跳ね返し、黄金時代を築き上げた。

 柏戸の伊勢ノ海は時津風一門に属すが、本家の大関北葉山、豊山とは系統が違うため対戦あり。大鵬同様総当たりだった。

出羽海は佐田の山が急浮上。栃錦が二枚鑑札を経て引き継いだ春日野からは栃ノ海、栃光が同時に大関となり、同部屋に近い環境で対抗した。関脇以下の実力者も多く、最も系統別総当たりの恩恵を受けていた。まず栃ノ海が綱取りに成功。佐田の山も綱取り待ったなしとなって30年代を終えた。

 立浪は、四天王が全盛を過ぎて、羽黒花などが続くが全体に凋落。照国が後継した伊勢ヶ濱からは、開隆山、清國と出てきているが大関はなかなか出ない。吉葉山の宮城野からは明武谷が善戦。

 

 

 若乃花から大鵬へスムーズに移行した二所ノ関が毎年半数以上を確保し、他を圧倒。横綱を失った出羽一門は後塵を拝したが、それでも毎年1回は死守したのはさすが。36年は最も苦しかったが、入幕3場所目の佐田の山が平幕優勝して確保した。時津風は、伊勢ノ海部屋の柏戸が2回に止まり、本家の北葉山が1回、期待の豊山もまだ届かない。高砂は横綱朝潮が何とか1回優勝するも引退、すっかり層が薄くなってしまったが、富士錦が平幕優勝でもう一矢報いた。30年代前半は最少の2回だった立浪・伊勢ヶ濱はとうとう0。宮城野の明武谷が決定戦に進んだが及ばなかった。


優勝回数レース詳報

 レース初年の昭和40年は、佐田の山の綱取り成功で幕を開け、出羽海が先行し大鵬の二所ノ関が追いつく展開、九州場所で大鵬の二所ノ関が逆転。柏戸の時津風も2位タイまで追い上げていたが、41年3月から大鵬が6連覇して抜け出す。最多優勝記録をマークした大横綱に、玉の海、琴櫻、輪島と続いて早々と独走体制を築いた。40年から13年連続で年間最多優勝(単独は9年)を譲らず、差を広げ続けた。実は先史の項で書いた通り、年6場所となった昭和33年からずっと最多で、実際は20年連続である。

 50年代には出羽一門の北の湖や高砂一門の千代の富士に主役を奪われたが、横綱若乃花、隆の里、大関の魁傑、貴ノ花、琴風、若嶋津も複数回制しており、昭和58、59年は最多優勝を奪回。依然大きなリードを保っていた。

 しかし、60年に花籠部屋が不祥事で閉鎖されると、上位陣も次々引退し初の0。頼みの大乃国もスランプに陥り、その間、九重勢を中心とした高砂の天下が続いた。

 

 北の富士が10回の優勝を果たして『4弱』から頭ひとつ抜け出していた高砂一門だが、昭和48年から横ばい。昭和51年には北の湖が本格化した出羽海に抜かれ、昭和55年には首位二所ノ関と41もの差を付けられていたが、翌年フィーバーを巻き起こした千代の富士が一時代を築き、昭和62年には出羽海を抜き2位浮上。北勝海やハワイ勢も続き、曙が3連覇した平成5年まで9年連続最多優勝(うち単独8年)で、いよいよ7差に迫った。

 

 だが、琴富士、琴錦の平幕連覇で号砲を上げた新時代は、貴乃花らを擁する藤島勢が主役となり、再び二所ノ関の黄金期となった。平成6年から5年連続で最多優勝(うち4年は5回)で再び二所が突き放し、孤軍奮闘の曙が引退した13年には高砂との差は29と大きく広がっていた。

 ところが11年以降は貴乃花の急ブレーキで一気に勢力が衰えており、代わって武蔵丸が台頭。19年ぶりに最多優勝を記録するなど久しぶりに出羽が盛り返し始めた。

 

 そこに風雲児、朝青龍が現れる。合併により本家高砂所属となったモンゴル人横綱は、16年に5回、17年は全場所制覇と独走。高砂一門が猛烈な追い上げを見せ、22年初場所を制すと、首位との差は僅か3にまで縮まった。

 いよいよ首位交代が見えてきたが、この場所後に不祥事で詰腹を切らされた。そして二強は3差のまま6年間共に優勝なしで膠着。その時代に急激に優勝回数を伸ばしたのが白鵬、日馬富士を擁する伊勢ヶ濱一門だった。

 

 平成10年代に入って大関魁皇が5回優勝したことで、時津風との最下位争いからようやく抜け出たばかりの立浪・伊勢ヶ濱連合は、看板の伊勢ヶ濱が閉鎖、立浪が離脱と混迷を極めていたが、新・伊勢ヶ濱部屋の創設、一門の看板への復帰と時を同じくして、黄金時代を迎えた。19年以降11年連続最多優勝(全て単独、22年からは6年連続5回以上)。白鵬が大鵬の最多優勝回数を更新した平成27年には出羽海を抜き、初めて3位に浮上した。昭和は最下位に終わったが、平成だけなら1位に躍り出た。令和に入っても白鵬が粘って照ノ富士が積み重ね、低迷する2位高砂を追い上げているが、それでもまだ20回以上の差がある。

 

 令和の勢力図は高砂を除いて非常に均等に割れており、3年の伊勢ヶ濱の5回と4年の二所の3回以外は、全て年間2回以下。ここまで全く見せ場のなかった時津風一門が直近10年間で9年優勝を記録しているのも、22年間無冠だった同一門にとっては大健闘。平成30年には2回でタイながら、初めての最多優勝を記録した。だが、このペースでは4位出羽海とは40回以上の差をつけられているダントツの最下位は脱せないが、伊勢ヶ濱も40回差を12年ほどで逆転しており、未来は分からない。

一門別優勝回数分析

二所ノ関

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

二子山40(貴乃花22,若乃花Ⅲ5,若乃花Ⅱ4,隆の里4,貴ノ花2,若嶋津2,貴ノ浪2)

二所ノ関18(大鵬17)

花籠16(輪島14,魁傑2)

佐渡ヶ嶽14(琴櫻5,琴風2,琴錦2)

片男波8 (玉の海6,玉鷲2)

常盤山4(貴景勝4)

田子ノ浦2(稀勢の里2)

藤島2(貴花田2)

 

 本家の大鵬が17回を記録しスタートダッシュを決める。スタートラインを全盛期の真ん中に持って来られて損をしているはずだが、ハンデにもならなかった。

 次いで片男波の玉の海、佐渡ヶ嶽の琴櫻と両国勢から出た横綱が計11回。その後は花籠の輪島、魁傑、二子山の2横綱2大関が、北の湖、千代の富士の抜け出しを食い止める。特に輪島が北の湖を、隆の里が千代の富士を苦しめたのは印象的だ。

 平成期には藤島部屋出身の二子山部屋から出た貴乃花らが30回。7年からは4年連続年5回制覇し首位固め。

 佐渡ヶ嶽部屋は単発ながら苦しい時期にも優勝力士を出す。戦国を呼び込む連続平幕優勝。そして貴乃花が最後に優勝してから稀勢の里が初優勝で横綱に上がるまでの空白の15年間にも、3人が優勝している。二所ノ関、花籠、二子山と多くの優勝をもたらした部屋は閉鎖されてしまった今、佐渡ヶ嶽は片男波と並ぶ一門最古参。二代目琴櫻が優勝すれば、集計期間中最多の9人が賜杯を抱いた部屋となる。

 平成22年から30年まで、二子山を継いだ貴乃花一派が分裂。その間わずか3回と奮わなかった。貴一門が瓦解してその多くが復帰して以降は、貴乃花部屋出身で千賀ノ浦の貴景勝のほか、錣山の阿炎、湊の逸ノ城と他一門にルーツを持つ部屋が優勝力士を出したほか、玉鷲が片男波へ二度賜盃を奪還した。

 

 本家の優勝は金剛が制したのを最後に途絶え、平成期に閉鎖。その後元若嶋津の松ヶ根部屋、次いで元稀勢の里の荒磯部屋が名跡を受け継いで一門の象徴たる二所ノ関部屋を復活させ、令和6年にはゴールデンルーキー大の里が49年ぶりに賜盃をもたらした。

 

 大鵬の時代を除き、同時期に優勝できる力士が複数名輩出する層の厚さが特徴。怪童の出鼻を挫いた阿佐ヶ谷勢による北の湖包囲網、曙時代に待ったをかけた二子山包囲網は強力だった。


高砂

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

九重52(千代の富士31,北の富士10,北勝海8,千代大海3)

高砂31(朝青龍25,小錦3)

東関11(曙11)

 

 史上最多52回の優勝を誇る九重部屋を擁する一門。

 昭和42年に出羽海から独立、破門されて一門を移ったばかりの九重部屋に、北の富士が初優勝をもたらす。ポスト柏鵬の北玉時代の期待に応えて10回の優勝をマーク。本家からも高見山が外国人初の優勝者となり、その後も外国勢の強さは一つの特徴となった。

 50年代前半の空白期間を経て、次のエースとなったのも九重部屋の千代の富士。弟弟子の北勝海とともに黄金時代を築き、部屋勢で10連覇、9連覇、年間制覇もやってのけた。

 小錦3回、高見山の興した東関から曙が11回とハワイ勢の活躍で九重黄金時代後も回数を延ばして二所に迫り、二子山勢に突き放されても、朝青龍が1人で年間制覇を成し遂げるなど短期間で25回も重ねて再び首位に肉薄した。

 

 ところがその後の13年間は朝乃山の1回のみと、かつてない低迷期に入っている。団子状態の令和初期において一人負け状態である。不思議とその低迷期に念願の理事長が誕生。その八角部屋は2度決定戦で賜杯を逸している。

 

 一門での年6場所全制覇を3度記録した瞬発力が持ち味。平成25年に伊勢ヶ濱一門が記録するまで専売特許だった。


伊勢ヶ濱

(立浪・伊勢ヶ濱連合→立浪→春日山・伊勢ヶ濱連合→)

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

宮城野45(白鵬45)

伊勢ヶ濱18(現17 日馬富士9,照ノ富士8※、旧1)

友綱6(魁皇5)※現大島

大島4(旭富士4)

立浪1(〜H24)

 

 立浪からは戦前に双葉山、戦後は羽黒山が賜杯を独占し、伊勢ヶ濱の照國も連覇があったが、昭和30年代に入ると往時の勢いはなくなり、34年若羽黒の新大関優勝を最後に優勝から遠ざかっていた。

立浪には高島(のち友綱)も加わり、伊勢ヶ濱、朝日山のグループと連合を組んだが、立浪の若浪が平幕優勝、清國の新大関優勝の2回だけで最下位の時代が続く。50年代には大関旭國が惜しいチャンスを逃し、期待を背負って双羽黒を名乗った新人類横綱も優勝のないまま廃業したが、直後の昭和最終年に、旭國が興した大島部屋の旭富士が19年ぶりに制し、平成初期にかけて4回追加して最下位を脱出した。

 その後また10年近いブランクを経て、友綱から出た大関魁皇が5回追加。ようやく通算回数を二桁に乗せるとともに最下位争いから脱した。

 魁皇も賜杯から遠ざかったころ、宮城野部屋に白鵬が彗星のごとく現れ、圧倒的なペースを優勝を重ねる。安治川改め伊勢ヶ濱部屋の日馬富士の援護も得て、19年以降11年連続で年間単独最多優勝。27年には、出羽海との最大40回差を10年余りで跳ね返して、3位に浮上した。

 いずれも当時の師匠が継承した頃には廃れかけていたが、部屋頭の台頭に引っ張られて俄に名門復活が成った。


出羽海

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

三保ヶ関26(北の湖24,北天佑2)

武蔵川14(武蔵丸12)

出羽海5(御嶽海3,三重ノ海2)

玉ノ井3(栃東3)

春日野2

尾上

木瀬

立浪(H30〜)

 

 常に多くの年寄を抱えて大勢力を誇る一門。大正期には栃木山、大錦、常ノ花と強豪横綱が続いたが、昭和期には主役を担う大横綱級は途絶え、優勝回数では新興勢力の後塵を拝する状況が続いていた。

 昭和40年代前半は打倒大鵬に執念を燃やす佐田の山が奮闘するも、次代を期待された北の冨士がまさかの流出。世代交代に失敗して出遅れた。

 そこに現れたホープ・最年少横綱北の湖。小部屋だった三保ヶ関所属ながら、一門挙げて鍛え上げて巻き返しを図ったが、阿佐ヶ谷勢に優勝決定戦4連敗を喫するなど包囲網は強力で、5連覇した昭和53年以外はそれほど差を詰められなかった。本家の横綱・三重ノ海、弟弟子の北天佑が脇を固めたが、昭和61年以降は賜杯が途絶えた。

 独立解禁により部屋は急増、第1号の武蔵川部屋から出た武蔵丸が12回。平成11年春からは2関脇と合わせて同部屋6連覇を果たした。春日野から独立した玉ノ井からは師匠の実子・大関栃東が親子二代優勝。三保ヶ関から分家した尾上、木瀬からも優勝力士が出た。長らくご無沙汰だった本家筋の出羽海、春日野も平成の終わりにようやく巻き返し、復活優勝を果たした。

 惜しむらくは、独立を許さない伝統を長らく引きずったこと。九重部屋が円満に独立していれば1位だった、と嘆いても覆水盆に返らずか。


時津風

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

井筒7(鶴竜6)

伊勢ノ海3(柏戸3)

陸奥2(霧島Ⅱ2)

鏡山

追手風(H29~)

時津風

荒汐

 

 スタートから横綱柏戸が3年連続で優勝したが、豊山はついに賜杯を抱けず北葉山を含めた3人の上位陣が立て続けに引退。一門の創始者の時津風理事長が死去も重なり勢力は減退、59年に柏戸の興した鏡山部屋の多賀竜が平幕優勝したのが17年ぶりだった。

 平成2年には初めての最下位転落。3年1月に井筒の霧島が制して追いついたが、5月に1つリードを許すとそのまま長いトンネルに入り、そのままテールエンド。

 ようやく一門に賜杯をもたらしたのも井筒の鶴竜。初優勝で横綱となり、優勝回数を倍増させた功労者だ。その後は時津風に正代が復活優勝をもたらしたほか、部屋創設以来初の優勝も続いた。

 そのうちの一つが元大関霧島が継いでいた陸奥部屋で、井筒が後継者なく急死したため部屋を吸収。引退前の横綱鶴竜が移籍し、薫陶を受けた霧馬山改め霧島が2度優勝した。ところが直後に停年のため部屋を閉鎖。そのため現存する部屋では伊勢ノ海が唯一の複数回優勝となっている。