横綱の引き際

 横綱の引き際は、いつも切ないものである。強豪の力士ほど雄々しい全盛期が思い偲ばれ、もう2度と見られない寂しさに駆られる。

 横綱自身も、まだやりたいという執念と、最高位の権威を守ることとのジレンマに苦しむのだろう。葛藤の中で、彼らがどんなタイミングで引退を決意したのか。

 

 振り返ると、直前1年には休場があり、ケガなどで満足に土俵を務められなくなっていたケースがほとんど。年の半分に当たる45休以上を記録したり、休場を除いた成績でも負け越している力士が少なくない。

 

    以下、平成時代の横綱の引退にいたる経過を具体的に取り上げる。

平成の横綱の引き際


白鵬 翔

進退明言した復帰場所で全勝フィニッシュ

 ほとんどの通算記録を更新した最強横綱。全く休まないタフネスぶりも魅力で、連続勝ち越し、連続二桁勝利も更新していたが、平成27年9月に昇進後初めて休場してからは、徐々に欠場が目立つようになった。酷い乱調があるわけでもなく、復帰しては優勝するのでなかなか進退問題には発展しないものの、最後の3年は連続皆勤がないほど休みが増えていた。

 令和2年7月からは連続休場が続き、横審からついに注意決議が出された。ところが3年1月は新型コロナ感染のため休まざるを得ず、3月に出てきて2連勝したものの右膝を悪化させて途中休場。「名古屋で進退をかける」と明言。横審を牽制して手術に踏み切った。同場所を休んだ鶴竜は場所中に引退し、白鵬の休場は追認されたが、いよいよ退路は絶たれた。

 迎えた7月、必死の取り口で白星を重ね、綱取りをかける大関照ノ富士との楽日全勝決戦を制して復活優勝を果たした。

 高齢に加えて満身創痍ながら、土俵上でのわかりやすい負傷は31年春の千秋楽くらい。休場続きには同情より批判の声が圧倒的だったが、右膝の状態は限界に達していたようで場所中には辞意を固めていたようだ。ところがまさかの全勝で引退し損ね、翌場所は部屋でコロナが出て出場できず。そして場所直後に引退届を提出。

 最後と決めていたからか、最終場所は散々苦言を呈されていた乱暴な取り口を辞さず、奇策も弄し、頂上決戦でもやりたい放題、ガッツポーズで吠えた。

 大横綱の引退は自ら決めるとばかり、横審の苦言も意に介さず、自らの意思で最後の舞台を決め、最高の結果を残して王者に君臨したまま土俵を去った。それまで散々休んでいたことは差し引いても鮮やかすぎる散り様だった。

 当初はモンゴル籍のまま一代年寄を贈られて白鵬部屋を興すという青写真を描いていたとされるが、平成30年に日本に帰化。一代年寄も直前に事実上の制度廃止となって完全消滅、引退時は年寄・間垣を襲名した。

 

優勝から1場所 窮地度1、限界度3、電撃性4、悲壮感2

鶴竜 力三郎

休場続きに横審注意決議 結局出場せず引退

 28歳で横綱になった鶴竜。昇進当初から度々優勝するものの休場も多く、平成29年には皆勤が10勝5敗の1度のみで、師匠が次の出場に進退をかけると明言。その30年初場所は11勝でクリア、さらに春夏と連覇して完全復活かと思いきや、また休場続き。また危うくなったところ、元年7月を制す。同時期に稀勢の里が長期休場で追い込まれていたこともあり、そこまで進退に注目を浴びなかった。

 ところが、その稀勢の里も横審の「激励」発議の末についに引退すると、いよいよ厳しい目が向けられた。優勝の翌場所3連敗を喫して途中休場、翌場所は初日不戦敗と調整不良を露呈。続く場所も1勝3敗となって休場、いよいよ土俵際となった2年春だが、白鵬と楽日相星決戦まで持ち込み、またもや綱渡りに成功。

 ほっと一息と思いきや、翌場所初日早々裾払いを空振りして腰砕け。惨敗の挙句、肘から落ちて休場した。その後も腰痛などで全休が続き、しびれを切らした横審から、同じく連続休場中の白鵬と共に注意決議を受ける。ところが3年初場所を全休、さらに進退かけて出場と明言した春も直前の肉離れで前言撤回。それでも出場に意欲と伝えられ、場所後の横審で初の不祥事以外での引退勧告かと注目が集まったが、場所中に引退を発表した。

 最晩年には師匠急逝による移籍、帰化とイベントも重なった。特に国籍取得は引退後の身分に関わるもので、実際そこまで粘ったために横綱特権で年寄・鶴竜として残ることができたが、日本人力士としての出場はなかった。何度も身を引くタイミングがありながら休場を重ねたことは、過去の横綱と比較すれば潔さに欠け、やっと決断したかという雰囲気だった。しかし、それだけでは語れない制度的な問題も絡んだ複雑な引退問題だった。

 

優勝から9場所 窮地度5、限界度5、電撃性1、悲壮感2

稀勢の里 寛

待望の和製横綱 新横綱優勝で燃え尽く

 29年初場所、悲願の初優勝で急転横綱に推挙され、フィーバーに。話題先行、大甘昇進の声を払拭すべく臨んだ新横綱場所は、12連勝も横綱日馬富士の出足に圧倒され、左の肩から胸の筋肉を切った。翌日も相撲にならず連敗、大関照ノ富士に逆転を許したが、千秋楽直接対決二番で奇跡の逆転優勝。強行出場で劇的な連覇を果たした。だがやはり無理が祟ったか、翌場所から途中休場、全休を繰り返し横綱ワースト8場所連続休場。奇しくも貴乃花と同じ苦難の道を歩んだ。30年9月は10勝して一旦危機を脱したものの、続く11月は初日から4連敗して遂に横審から激励を受け、進退かけて臨んだ30年1月も3連敗。横綱ワーストの連敗記録を残し、引退を決意した。

 体力的にはまだやれそうにも見えたが、相次ぐ故障で相撲がバラバラで、最後は勝つことができなくなった以上、もう引退しかなかった。貴乃花と同じ道と書いたが、違うのは7連続全休の貴乃花に対して、負傷翌場所にも6勝してから休場するなど、治療に専念できなかったところ。すでに大横綱の地位を築いていた貴乃花に対し、新横綱で優勝したばかりの稀勢の里。しかも14年ぶりに誕生した和製横綱とあって引っ張りだこ。調整不十分での土俵復帰で、患部は完治せず、下半身にも不調が襲った。また大関時代までわずか1日不戦敗があるだけだったタフな力士にとって、休場明けの感覚は非常に困難。特に初日は昇進後2勝6敗だった。

 高齢昇進とはいえ、まさか新横綱の場所で燃え尽きてしまうとは、非常に残念な結果となった。

 優勝から11場所目、窮地度5、限界度4、電撃性1、悲壮感4

武蔵丸 光洋

連続勝越記録更新の鉄人も、最晩年は休場続き

 頑丈が売りで北の湖の連続勝ち越し記録を更新した武蔵丸だが、最後の一年間は故障が長引いて6場所連続休場。番付上5場所並び立った朝青龍とは、一度も横綱対決が実現しなかった。

 ただ、それほど引き際が悪いという評価にはなっていない。というのも、最後に皆勤した平成14年9月は、貴乃花との相星決戦を制してこの年3度目の優勝。つまり、引退前年には最強力士の座を保持していたのである。その場所、骨折をおして出場したツケが来て、左手首の手術に踏み切る。回復は順調ではなく長期離脱。前年に貴乃花が7場所連続全休していたため、そこまで厳しい批判はなかったが、7月場所ぶっつけ本番で出場し、序盤3連敗して途中休場。さすがに次は進退をかける場所とみなされた。

 1場所全休を挟み、11月場所。初日勝ったが連敗、ここが一つの決断時だったかもしれないが、相撲勘の問題と考えて調子が上がることに期待し、翌日も出場。7月に敗れている引導男・安美錦を退けて光が差したのも束の間、玉乃島に逆転負け。再び引退危機。この負けは土俵際で詰めを誤ったものであり、身を引くには悔いが残る。翌日、実力者琴光喜を破って三度星を五分に戻した。が、7日目土佐ノ海の引っ掛けにあっさりと土俵を踏み出し、「立往生」となった。逆転負けとはいえ、さすがにこの調子では勝ち越しも厳しく、休場も許されない。引退はやむを得なかった。

 最終場所然り、歴代の横綱と比べてもしぶとく粘った方だと言える。しかし体力的にはまだまだ持ちそうであり、手首という一部の故障が全てを狂わせての引退は、実にもったいない印象も残った。

 ただ、実は入門前から抱えていた首の故障が根本の原因にあったことがわかり、武蔵丸という力士のタフさが逆に浮き彫りとなったのは有名な話である。

 故障による長期休場が、相撲にも影響を及ぼして引退につながったケース。一方、首の状態の深刻さは語られていないが、向き直る動きの遅さはしばらく前から顕著になっており、それによっては限界という見方も出来るが、真相は本人にしか分からない。

 優勝から7場所目、窮地度5、限界度3、電撃性2、悲壮感3

貴乃花 光司

超人気横綱の壮絶な散り様 印象深い最後の活躍

 平成の相撲人気を支えた貴乃花の引退を巡っては、連日報道陣が徹夜で張り込む過熱ぶり。前年は1場所しか出場せず、2場所ぶりの出場で序盤で負傷休場。異例の再出場で復活を目指したが、連敗を喫し引退となった。自ら死に場所を求めるかのような散り様だった。

 20回目の賜杯以降、丸2年優勝から遠ざかった貴乃花は、相次ぐ故障を克服して13年1月復活優勝。3月は次点、5月は初日から13連勝して独走態勢だったが、14日目武双山戦で右膝を負傷。一人で歩けないほどのケガを負いながら、千秋楽強行出場。仕切り直し中に外れた膝を入れ直すという悲壮な戦いだったが、決定戦では本割で一蹴された武蔵丸を上手投げに下して優勝してしまった。その精神力を称える一方、相手の武蔵丸への同情論や、出場の決断に関しての批判もあり、論争を巻き起こした。

 それはともかく、貴乃花の膝は予想以上の重傷で、渡仏して手術、リハビリに努めた。長期休場はやむなしと考えられたが、横綱ワーストの5場所連続全休、さらに離脱が一年に及ぶと、さすがに批判の声が強くなった。毎場所直前になっての出場回避が続き、横審による出場勧告も示唆されるなか、14年9月、8場所ぶりの出場となった。膝は万全ではなく、序盤で2敗したときはもはやこれまで、と報道陣が部屋に大挙したが、奇跡の復活を遂げて12勝3敗。横綱相星決戦まで演じて驚かせた。しかし膝の状態は悪化、11月はまた全休。9月の頑張りだけでは7場所全休は帳消しとはいかず、15年1月も再び進退問題が燻る場所となった。

 初日、際どい逆転で星を拾い、2日目雅山戦。捨て身の二丁投げに肩から叩きつけられて負傷。相手も故障したとあって、取り直しの一番は制したが、肩は上がらない状態で、翌日から休場となった。これは不運な土俵上の怪我で、進退問題は猶予という流れだった。ところが、突如5日目から再出場すると発表され、角界は揺れた。横綱が再出場するのは、昭和29年の東富士以来半世紀ぶりの異常事態。北の湖理事長も同じ箇所の故障を理由に再休場は許されない、と発言し、事実上退路は断たれた。

 満身創痍ながら、立合いの変化も辞さず必死の連勝、しかしついに7日目、出島の押しに圧倒され、翌日も新鋭安美錦に送り出されて、4勝3敗1休。一晩考えて、翌朝引退を発表した。

 前年秋の復活劇があったばかりで、もう少しケガが回復すればまだやれるとの声も強かったが、10代から第一線で戦い続けた心身の疲労は相当なもの。30歳とはいえ土俵年齢は限界に近かったのかもしれない。

 長期離脱が許されない角界の厳しさと共に、自ら散り際を決めるという矜恃を見せつける、大スターらしい引退劇だった。

 優勝から11場所、窮地度3、限界度3、電撃性3、悲壮感5

曙 太郎

不振を乗り越え優勝したまま引退 年間最多勝翌場所全休後に

 曙の引退は13年1月千秋楽打ち出し後。まさに突然の出来事だった。古傷の膝が不調でこの場所全休したとは言え、その前の11月場所は円熟の相撲ぶりで優勝、7年ぶりに年間最多勝も獲得した。しかし、これ以上怪我との戦いに臨むには、気力が限界だった。ところが2年半後、これまた突然に部屋付親方から格闘家に転身、K-1での惨敗続きは相撲最強論者を歯軋りさせたが、プロレスでは人気を博し成功を収めた。

 優勝した次の場所に引退というのは、あまりにも綺麗過ぎる引き際だ。最後の一番が優勝決定の瞬間だったわけであり、通常の引退とは大きく違う。ただ、曙の場合、怪我との戦いが長く続いて、不振による引退危機も何度か言われていた。6年に膝を手術した曙は、長期離脱を強いられ、その間に横綱となった貴乃花に覇者の地位を奪われる。優勝は新横綱の平成5年は4回をピークに、6年に1回、7年に1回、1年空いて、9年に1回、2年空いて12年に2回。膝に加えて腰も痛め、2メートル200キロを越える巨体が仇になり、惨めな負け方が目立った。9年9月は9勝に終わり、翌場所全休。続く10年1月は序盤で3勝3敗となり、かなり危なかった。さらに3月も連敗スタート、この場所は13連勝で盛り返し、面目を保ったが、以降も序盤に星を落とすので安心して見ていられなかった。10年の終わりから11年にかけては3場所連続全休、再起をかけた5月はまた連敗スタート。ここも乗り切ったが9月11月と休場し、いつ引退してもおかしくないような状況だった。

 ところが、12年に入り1月のストレート給金をきっかけに復調し、7月は13日目に3年ぶりの復活優勝を決めた。11月は5年ぶりの14勝を挙げてまた賜杯を抱いた。1年間安定した成績で皆勤し、実力で引退説を忘れさせた頃だっただけに、突然の引退には驚かされた。この場所14勝同士で横綱の貴乃花と武蔵丸が決定戦を戦う好展開に、後は任せても大丈夫と安心したのだろうか。結果的には、貴武蔵横綱対立時代は、長期休場のために幻に終わった。格闘家になる元気があるなら、曙にはもう一踏ん張りして欲しかったところである。そして一度は見たかった、曙ー朝青龍戦(朝青龍は13年の1月新入幕)。

 引退危機を乗り越えて、有終の美に持ち込んだ最後の1年間に価値がある。怪我で優勝から遠ざかったまま寂しく土俵を去るのではなく、最後にもう一度強いイメージを残したことは大きい。引き際を見誤らなかったことが、横綱としての印象を高めた。

 優勝から1場所、窮地度1、限界度2、電撃性4、悲壮感1

若乃花 勝

限界超えた体で昇進 ついに気力の限界

    史上初の兄弟横綱を実現した若乃花。後に引退した弟・貴乃花同様、自ら死地に飛び込んだような最終場所だった。

 長い大関時代を経て、かなり体は痛んでいたが、平成10年春夏連覇で横綱昇進。すでに28歳。曙・武蔵丸などの強敵は巨漢揃い、小兵・技能横綱の寿命はそう長いものではないと、大方が予想した。さらに、一族の系譜にはなく、不吉なジンクスのあった不知火型の土俵入りを採用(二子山系では過去に隆の里がいるが)。短命横綱の宿命を昇進時から覚悟していたようにも思える。

 10年は横綱初優勝は逃した(若貴絶縁騒動最中の秋、千秋楽まで貴乃花と争った)が、初の年間最多勝をものにした。11年1月、今度は別居騒動でマスコミに追いかけられながら初日から勝ちっぱなし、1差で千秋楽を迎えたが、決定戦の末千代大海に逆転された。

    この後、若乃花は衰退の一途。体調が整わず、負けが込んで下半身の故障を再発、2場所続けて中盤途中休場。全休をはさみ、窮地に立たされた若乃花、9月は何とか立て直して3敗で10日目を迎えたが、闘牙戦で股割りの形に開いて押しつぶされ、足の筋を故障。執念で同体取り直しを制して7勝目を挙げたが、深刻な状態。それでも意地になったように出場を続けるも、給金へあと1つの白星は挙げられず、いよいよ千秋楽。勝てば優勝の武蔵丸をまともに打っ棄ろうとするが潰されて重ね餅、15日制では2人目の横綱皆勤負け越しとなった。引退かと思われたが、理事長の元に出向いて現役続行となる。横審から休場勧告を受け、2場所全休。もう1場所の休場が予想されていたが、12年春に進退を懸けて強行出場した。

 なにわのファンから手拍子が起きた(11年の出島コールあたりから始まった、手拍子という聞き慣れない場内の異常な盛り上がり方。最近珍しくなくなってきた)。初日、和歌乃山を技能相撲で肩透かしに下して白星を挙げたが、2日目雅山の突き押しに力負け、3日目旭鷲山に動き負け。さすがに2つ負けが先行すると、進退場所では決断を迫られる。4日目、難敵玉春日を前に攻めて星を五分に戻した。しかし、5日目。高校の後輩・技能力士の位牌を継ぐ栃東におっつけ負け。お株を奪われる完敗だった。夜、引退を発表。

 20代での引退となったが、足の筋肉はズタズタ。力士らしからぬ張り詰めた下半身が目立っていた横綱だけに、生命線をやられてはどうしようもなかった。一度は散る覚悟で負け越すまで取りながら、再起の時間を与えられた。しかし完治する故障でもなく、時間は相撲勘と気力を奪っていく。無謀にも思えた強行出場は、そうした焦りからだろう。体力の限界というのが相場の引退会見での「体力を補う気力の限界」という表現が、小兵横綱の意地を示していた。

 消耗しながら力士寿命の終盤に横綱に辿り着いただけに、短命は仕方ない。せめて2度の優勝のチャンスの1度でもものにしていれば、もう少し横綱として高く評価されただろう。

 優勝から11場所(大関)、窮地度5、限界度5、電撃性1、悲壮感4

北勝海 信芳

世代交代の波 満身創痍で耐えきれず

    四横綱最後の砦となったが、満身創痍の体で再起を断念。横綱空位という非常事態を生んだ。

 若くして大関、横綱に上がり、結果も残してきた北勝海。激しい押し相撲を武器とする相撲はダメージも大きく、昭和63年には3場所連続全休するなど足腰の不安があった。その後よく再起して通算優勝8回を記録。平成に入ってからは、故障の多い千代の富士よりも優勝争いで本命視されることが増えていた。平成元年、2年と2回ずつの優勝を飾り、平成3年も初場所千秋楽まで争い準優勝、春は14日目大乃国との直接対決を制して単独トップに躍り出る。ところがこの一番で左膝を負傷。相撲が取れない状態だったが、ひた隠しにして土俵入り、三役揃い踏み。幸運にも大乃国がすでに10敗の霧島に不覚、優勝を飾った。

 夏場所を休場するが、この場所で千代の富士が引退。翌場所復帰するが不振、場所中大乃国が引退、他の上位陣もピリっとせず平幕琴富士に13日目で優勝を決められ、千秋楽結びは旭富士と8勝6敗の相星対決。ポスト千代の富士時代の上位陣の体たらくに批判が殺到した。ただ、北勝海にとっては休場明けであり、横綱昇進後全休を除き2度目の一桁白星。さして責められることもないはずだが、時代が悪かった。翌場所休場を挟み、九州に再起を賭けるが前半で3敗し、膝のケガの悪化を理由に途中休場。本人は満身創痍の状態から引退を考えたようだが、もう一人の横綱旭富士の絶不振もあって辞めるに辞められない。1場所休んでいる間に先に旭富士が引退。一人横綱の重責まで背負うことになり、4年春場所で復帰するも初日から連敗し休場。まだ28歳、懸命に再起を目指すも限界は本人が一番自覚しており、もはや気力で持ち直すことは出来なかった。翌夏場所直前、異例の時期に引退を発表した。

 横綱として安定した成績を残していたが、その時期に強い横綱が同部屋にいて、やっと主役を張ろうかという時期に故障。その苦しい時期に若手が台頭、ライバルでもあるが責任を共有できる横綱たちが消えていった不運。自ら引き際を決断できない状況になってしまったのは気の毒だった。若すぎる引退となったが、体力的には限界まで取ったと言えるだろう。

 優勝から6場所 窮地度4、限界度4、電撃性2、悲壮感4

旭富士 正也

在位9場所 まさかの急落

    30歳で悲願の横綱に。遅咲きの花を咲かせ、横綱としても優勝を飾ったが、その直後突然の急降下でわずか在位9場所に終わった。やはり短命の不知火型。

 大関時代から年間最多勝を獲得するなど高い安定感を示し、何度も横綱に挑戦していた旭富士。しかし53連勝した千代の富士・北勝海の九重勢の前にあと一歩で優勝をさらわれてなかなか上がれず、30歳にしてようやく昇進。

 新横綱場所は相星決戦に敗れて3連覇は逃したが、毎場所終盤まで優勝を争い、5場所目に横綱としての初優勝を果たす。千代の富士が引退、北勝海と大乃国が休場して一人横綱の場所、14連勝の大関小錦を千秋楽逆転しての賜杯は、さすが横綱と讃えられるもの。千代の富士に代わって第一人者の地位を受け継ぐ者として、これ以上ないアピールができたはずだった。

 ところが、持病の膵臓炎が顔を出す。痛みで稽古不足に陥る。名古屋場所では黒星先行の展開で全勝の平幕琴富士にも完敗、13日目にようやく勝ち越して8勝7敗。翌場所も若花田の投げにひっくり返されるなどひどい負け方が続き序盤で途中休場。1場所休んで4年初場所に臨んだが、曙・安芸ノ島に地力負け、3日目は若花田にまたも派手に投げられて引退を決意した。

 他人にはわかりにくい病気を抱えて力が出せず、惨敗を重ねて限界論が強まり、在位9場所で引退せざるを得なかったのは、当時の状況も影響した。不振はわずか4場所のことであり、大関時代にも5場所連続一桁しか勝てない時期を乗り越えて連続優勝を飾っている。時間をかけて治せば、或いはまだ力を発揮できたかもしれないが、これまで辛酸を舐めさせられてきた先輩3横綱の不在により、綱の重みが増して猶予を奪うこととなったのは、なんとも皮肉としか言いようがない。

 優勝から4場所、窮地度3、限界度3、電撃性1、悲壮感3

大乃国 康

負け越し、4場所連続全休からの復活途上で

    角聖常陸山と比べられた未完の大器。横綱史上最重量級、初めて200キロを超える体に綱を締めた巨漢横綱。期待されながらも大スランプに悩み、ようやく復調の兆しが見えかけたところで突然引退となった。

 昭和62年、大関で全勝優勝を飾ると勢いを駆って横綱を掴む。昇進直後は8勝、途中休場、続く63年春には1勝2敗と苦しくなったが、そこから盛り返して千秋楽、ライバル北勝海を逆転し横綱として初の優勝。同年九州では千代の富士の53連勝をストップさせて存在感を発揮した。だが優勝争いからは早々に脱落し、本格化の兆候は見えなかった。

 そのうち減量失敗や睡眠時無呼吸症候群で大乱調となり、平成元年秋は7勝8敗と15日制下の横綱では史上初の皆勤負け越しを喫した。進退伺の騒ぎとなったが慰留された。1場所休んで勝負をかけた2年初場所は8勝7敗、しかも千秋楽に足首を骨折してその後4場所連続の全休に追い込まれた。横綱として最長ブランクを経て戻ってきた九州場所だが、千代の富士にも勝って10勝に乗せる。1月も10勝、そして3月は優勝を争うまでに復調し、14日目の横綱相星対決には敗れたが、勝った北勝海が負傷。千秋楽は4勝10敗と大乱調の霧島を破れば逆転優勝となるはずだったが、まさかの黒星。千載一遇の機会を逃したものの一息つけるかに思われたが、1場所全休した後の名古屋場所、売り出し中の若貴には勝つが4勝4敗となったところで突然引退した。

 優勝争い後の故障休場明けであり、進退のかかった場所という認識はされていなかったが、本人の中では、長い不振もあって追い込まれた心境が続いていたのだろう。しかし、せっかく賜杯を争うまで復調してきていただけに、体力的限界までは残った2横綱よりも余裕はあっただろう。最後の相手も上位キラーの安芸ノ島とあって敗戦のインパクトはそれほどでもなかったが、横綱としての相撲に限界を感じたようだ。前場所に天敵千代の富士が引退し、ようやく時代がやってくるかに思われたが...

 優勝から21場所、窮地度3、限界度3、電撃性3、悲壮感2

千代の富士 貢

世代交代悟り大横綱らしい引き際

 あまりにも有名な大横綱千代の富士の電撃引退。

 平成3年夏場所、初日にのちの平成の大横綱、18歳貴花田との初顔合わせに敗れる

3日目にも貴闘力のとったりに転び、3日目で2敗となったのは、新横綱場所で途中休場した時以来(不戦敗含む)。同日夜、「体力の限界」を理由に引退した。

 昭和63年に53連勝を記録した千代の富士。翌平成元年は肩の脱臼、愛児の死と心身ともに苦しんだが、鮮やかに復活。秋には全勝を記録して通算勝利1位をマーク。

九州場所9連覇は1差で逃したが、2年初場所は独走で13日目に30回目の優勝を決めた。

 ここから苦戦が始まる。春は通算1000勝を記録したが、10勝どまり。旭富士との優勝争いに2場所続けて敗れ、秋は全休。59年に5場所優勝から遠ざかって以来のブランクが生じた。35歳にとってこれは不調ではなく衰えだという指摘がされるのは当然だった。

 ところが不死鳥とも言われる休場明けの強さを発揮。得意の九州で31回目の優勝を飾ってみせた。大鵬にあと1回と迫った平成3年は、初場所序盤で上腕の筋肉を痛めて休場。春も休んで夏場所で復帰となったが、その春場所で旋風を巻き起こしたのが貴花田。11連勝で優勝戦線を賑わし、一気に上位へ進出した。

 こう見ると、直近の皆勤場所は優勝し、怪我で2場所休んだだけだから、誰も進退をかけて出場してきたとは思っていない。序盤思わぬ躓きで優勝は厳しくても11勝くらいに落ち着くと予想するのが普通だろう。休んでいる間に台頭したのは貴花田だけではなく、曙ら楽しみな若手が揃っている。ウルフらしい動物的勘が引き際を悟らせたか。ある程度覚悟の上での出場だったかはわからない。

 その兆候はあったのか。2年春の10勝は横綱昇進後ワーストタイ。優勝した後も貪欲なウルフだが、2年初場所、九州とも優勝を決めてから土がついている。秋の休場も夏巡業で若手を鍛えていて故障したあたり、直近1年にはこれまでにない陰りが見える。小錦に4連敗、両国にも短期間に3敗と押し相撲に苦戦している。それでも決定的な綻びは見せていなかった。

 大横綱だからこその自ら選んだ引き際とも言えるが、大鵬に並ぶV32は不可能だったのか。辞めていなかったら他の横綱同様、世代交代の波に呑まれていたのか。ミステリーを残してウルフは去った。

 優勝から3場所、窮地度1、限界度2、電撃性5、悲壮感2

まとめ

 以上、平成の横綱の引退劇を振り返った。連続休場や不振でいよいよ辞めるしかなくなったのが若乃花、武蔵丸、稀勢の里、鶴竜。負け方を見ると非常に厳しそうだが、猶予を与えられれば復調の余地もあったのではと思われるのが、北勝海、旭富士。再出場して自ら死地に飛び込んだ貴乃花、最後まで力を発揮しつつ自ら退いた千代の富士、曙、白鵬。判断が難しいのが大乃国で、優勝からは最も離れていたが、絶不調からは立ち直りを見せつつの引退。実に様々である。

 最高位に在る者として、追い込まれて辞めるのは恥ずかしいという教えは、脈々と引き継がれる。負け越しなどもってのほか、8,9勝ではひどい成績と叩かれる。12勝してやっと務めを果たしたと評価される(北の湖曰く、横綱の勝ち越しは12勝)。休むことは許されるが、それも何場所も続くと進退問題になる。長期休場明けは相撲勘が戻らず、序盤に金星を許すと大きく騒がれる。一度調子を崩すと戻すのは大変である。名横綱と讃えられる栃錦、大鵬、北の湖でも、晩年を迎える前にそうした苦しい時期を経験している。

 横綱の面目を保って辞めるにはどういう引き際であれば潔いとされるか。引退するからには、重大な怪我か引退を決断するに足る敗戦があるはずだから、最終場所の不成績は余程出なければ酷評されないが、ずっと横綱らしからぬ成績が続いていると印象は悪い。

 惜しまれる力士に共通するのは、直前数場所(全休は飛ばして)に好成績のある場合である。直近の皆勤場所が優勝の千代の富士、曙、白鵬は鮮やかな印象。準優勝だった貴乃花、大乃国も、長期全休の印象をかなり払拭した。他の横綱も、優勝または準優勝が約1年以内にあり、逆にそれ以上長い期間優勝争いから遠ざかることは印象が悪く、これがひとつの辞め時なのかもしれない。

 「桜の花の散るが如く」去っていくのが横綱という美学が語り継がれる。その理想には届かなくとも、まだらに萎れながらも最後にひと花咲かせて散っているあたり、横綱の矜持が現代にも引き継がれているのもしれない。

番外編

 昭和には24年の前田山、62年の双羽黒。平成22年の朝青龍、29年の日馬富士。ご存知の通り土俵外のことで引退してしまったケースだ。比較対象にできないのでこれまで敢えて触れていなかったが、事件を受けて掲載することにした。

   平成の2例は、どちらも発動前に自ら引退したが、横審から引退勧告の方針は間違いなく、不名誉な形で土俵を去った。いずれも峠は越していたが、直近に優勝を果たすなど土俵上では引退に追い込まれる成績ではなく、自ら力士生命を縮めてしまった形。師匠との確執で破門同然の廃業という形になった双羽黒も不振が目立っていたが、直前は悲願の初優勝に迫る13連勝。またも九重勢に阻まれたが、横綱2年目の24歳には大きな期待が寄せられていた。その後プロレスなどでもトラブル続き、立浪部屋の師範として復帰した時期もあったが、体調を崩して若くして亡くなった。
 横綱がこんな去り方をすれば、もし現役を続けていればという想像が膨らむ。特に双羽黒はまだ伸びしろを感じさせ、年齢的にも5年は君臨していただろうから、平成初期の相撲史はそれなりに違ったものになっていただろう。翌年の千代の富士の53連勝を途中で止めていた可能性も十分。4横綱が1年で引退する急激な世代交代の波も、簡単に休むと批判された双羽黒なら体力的に余力を残していて、うまく乗りこなしたかもしれない。他の横綱の寿命も伸びたかもしれない。朝青龍も白鵬に本割7連敗中だったとはいえ、黙って63連勝の独走を許したとは思えない。
 前田山は10年近く大関を務めてからの昇進で、もはや余力はなかった様子。不成績で病気休場としていながら、堂々の野球観戦では引責やむなし。元々素行不良で昇進時にも異例の留保を付けられる暴れん坊だった。しかし本人は何事もなかったかのように高砂一門の総帥として君臨。高見山をスカウトするなど国際化への道を開いた。なお、この事件をきっかけに横綱審議委員会が発足したが、それが半世紀後に曾孫弟子(?)・朝青龍の天敵になるとは、深い因縁である。