大関の時代

 平成20年代は、横綱よりも長い大関の歴史で、初めての6大関時代が到来したことが記録上のトピックとして残るだろう。

 大関がNo.1を示す地位でなくなって久しいが、その地位にあるものが角界の重要な看板であることには変わりはない。大関が誕生すれば、一躍時の人となって注目を集め、次代の中心を担う者として持てはやされる。その大関も、頂点を目指して何度も厳しい綱取りに挑む。挫折を味わい、年を経て横綱に上がれず伸び悩んだ力士となるか。もしくはそんなチャンスもないか。有望な後輩に追い越され、衰えて、いずれ引退か陥落の時を迎える。「元大関」は、このような運命をたどった力士たちである。「名大関」と称される力士とて、晩年の成績は例外なく切ないものである。

 大関力士個人を取り上げれば、頂点を極められなかったマイナス面がどうしてもついて回る。しかし昔を思い起こす時、大関もまたその時代を盛り上げた一人として記憶される。一人で時代を代表することは難しいが、「大関陣」としてなら十分に一時代を語ることができるだろう。ここでは「大関の時代」と題し、人数ごとに代表的な大関陣の時代を振り返り、その人数のバランスがもたらす傾向についても分析したい(現在は各1、2例ずつしか挙げていないが、少しずつ追加する予定)。

(平成24年初稿、29年加筆)

序論・0/ 1大関時代

 大関は東西に必ずいなければならないという番付上の決まりがある。広義の大関は横綱も含むから、もし(狭義の)大関が東西に揃わなければ、横綱の誰かが「横綱大関」の肩書で番付に載り、兼任する。昭和50年代、たびたび大関に欠員が出て、「横綱大関」という肩書が番付に登場している。

 近代に例はないが、もし大関も横綱も不在となれば、大関については強引にでも作られることになるという。たまたま関脇で8勝の力士でも、あるいは三役がすべて負け越せば平幕の力士でも、非常時には大関の称号が与えられることになるというのが通説だ。最近では平成4年夏場所前に北勝海が引退して、横綱・大関は実質2人に。場所後曙が昇進して0横綱3大関となったが、九州場所で霧島が陥落して翌5年初場所は小錦と曙の2大関だけに。少しタイミングがずれていたら、本当に大関を無理やり作らないといけないところだった。

 江戸時代には、興行を成功させるため、体格の立派な素人を「看板大関」として祭り上げて、土俵入りだけさせたりしていたそうだから、重いのか重くないのかわからない地位でもある。

 一人大関を務めたのは、前述昭和50年代の貴ノ花、千代の富士、琴風がいる。世代交代が急激な時期に起こるようだ。

 千代の富士が横綱に昇進し、琴風が大関となる間の1場所だけだが、昭和56年秋場所は、0大関になった。0大関も1大関も珍事と言ってよく、記憶に残るほどの時代を形勢したことはない。

2大関時代

①小錦、霧島(平成2年11月~4年5月)

 2大関時代で最も強烈な印象があるのは、平成初期の【小錦、霧島】の時代だ。二人の体格・取り口・出世の道のりはことごとく対照的でありながら、実は同時に入幕、晩年は平幕でも奮闘という共通点もあってインパクトが強い。そして、何といっても実質的に横綱と同じ最高位としての働きをしたのだから印象に残るはずだ。

 番付上で上位陣(横綱と大関)がこの2大関だけだったことはない。平成4年5月は1横綱2大関だったが、場所前に北勝海が引退を発表したため、上位には2大関だけが存在することになった。翌7月場所は曙が大関昇進し、番付上は0横綱3大関だったが、曙は全休。

 実質的な0横綱2大関状態は、平成3年後半から続いた。5月千代の富士、7月に大乃国が引退。残る旭富士、北勝海も休場を繰り返して引退となったので、土俵にはやはり大関小錦・霧島しかいないという状態が1年ほど続いたのである。

 実質最高位かはさておき、両者が番付上2大関となったのは、平成2年11月から。9月に旭富士が横綱昇進し、北天佑が場所中引退して4大関から2大関となった。以降4年5月までの10場所、2大関時代は続いた。ただ2人居ただけでなく、4年3月は両者の相星決戦になるなど、戦国時代のなかで優勝に絡み、大挙する若手力士の壁となって存在感を示したことが、強烈な印象を残した要因だろう。

 時代の中心は曙、若貴へと移り、霧島は4年11月限りで大関陥落、その1年後小錦も陥落した。ともに実績・年齢からいって引退してもいいタイミングだったが、しばらく平幕で頑張り、同じ境遇で力士生活の晩年を過ごし、声援を浴びた。

3大関時代

①若乃花、武蔵丸、貴ノ浪(平成7年1月~平成10年5月)

 この3大関の時代は、異例の長さだった。平均すると大関は1年に1人出ている計算だが、平成6年3月に武蔵丸・貴ノ浪が昇進してから、史上最も長い5年もの間、新大関は生まれなかった。その間、この3大関はそれぞれ若干の波はあったものの相対的に安定した好成績を修め、やがて2人は横綱となった。3大関で合わせて11回の優勝を記録するなど、貴乃花・曙の2横綱に対しても激しく争った。

 この時代、貴乃花・若乃花・貴ノ浪の3力士が二子山部屋。彼らは上位との対戦が2番しかなかったのだから、かなり有利だという声もある。一方で、魁皇、武双山、琴錦ら関脇以下に大関クラスの実力を持った強豪が揃っていたことが、他の時代と比べて有利だとも言い切れないと弁護したいところだが、関脇以下の強豪にはさらに安芸ノ島、貴闘力という二子山部屋の上位キラーもいて、他の時代はともかく同時代の曙、武蔵丸(武双山とは同部屋、のち出島、雅山も大関になって立場逆転)に比べれば有利だった点は否めない。

 大関としてこの3力士が同時に番付に載ったのが、前述の平成6年3月。武蔵、貴浪が同時昇進した場所で、このときは貴ノ花を含め4大関だった。平成7年1月からは貴乃花が横綱となり、3大関時代が幕を開いた。前年7月には武蔵丸が全勝優勝、若ノ花も14勝1敗で、貴乃花よりも先に綱を掴んでもおかしくなかっただけに、まさかこれほど長く続くとは思えなかった。関脇の魁皇、武双山、貴闘力らの大関取りは悉く失敗。大関陣も優勝はするが、横綱貴乃花の全盛期にあって、連覇、綱取りは至難の業。結局3大関体制は維持され続けた。

 ようやく打破したのは、皮肉にも弟貴乃花の不振の間に連覇を果たした若乃花。ついに横綱免許の使者を迎え、4年半続いた3大関時代についに終止符が打たれた。新しい大関が誕生したのは、翌年の3月。5年ぶりに上位陣の顔ぶれが変化した。

4大関時代

 4人大関がいると、対戦カードも豊富になり盛り上がる。全員が好調というわけにはいかなくても、2人くらいは優勝争いに食い込む力を持っているはずで、そうなれば優勝争いも常に横綱だけで行われるよりは新鮮味がある。横綱をめぐるレースも激しくなり、他の3人に足を引っ張られなかなか抜け出せずに、4大関体制が長期化することもある。ただ、抜け出せば、それだけの力を持った横綱になっているはずである。

 

①千代大海、武双山、魁皇、栃東(平成14年1月~7月、15年3月~16年5月、16年9月~11月)

 平成11年から13年にかけて、あれほど重かった大関の扉は、慌ただしく開閉した。特に12年は毎場所新大関、再大関が誕生。この激動の中で、大関として生き残ったのがこの4大関だ。4大関とも優勝経験があり、それも昇進前後に賜杯を抱くという共通点を持つ。魁皇と武双山、千代大海と栃東はそれぞれ同い年でライバル関係にあり、ドラマも生まれた。一方でみな故障が多く、公傷制度を頻繁に利用した時期があって、彼らへの批判が公傷廃止の一因となった。廃止によって痛手を受けたのも、また彼らであった。

 この4大関が初めて同時に大関を務めたのは、平成14年1月場所。新大関の栃東が、大関4年目を迎えた千代大海を千秋楽逆転し、初優勝を遂げた。7月には千代大海が大関として初めて優勝。既にベテランの域に差しかかった魁皇、武双山は腰の持病で苦しんでいた。9月、朝青龍が新大関となり、4大関時代は中断するが、わずか3場所で横綱に昇り、15年3月からは再び4大関に。若手にあっさり先を越された悔しさから奮起し、15年は3大関が1場所おきに優勝を飾って面目を保ったようにも見えるが、実際は休場のオンパレードで、途中休場のあった横綱朝青龍が余裕で年間最多勝をマークした。16年は公傷制度が廃止され、故障休場した翌場所すぐに角番がやってくる厳しい時代となった。4大関とも満身創痍。まず栃東が脱落、故障で5月の角番場所を全休し陥落したが1場所で復帰した。4大関復活もつかの間、前年から角番を繰り返していた武双山が力尽く。1場所おきの角番を何とか乗り切っていたが、11月場所3連敗を喫しついに引退した。さらに同場所栃東も連続休場で再び陥落。ここに4大関の時代は幕を閉じ、17年1月の上位陣は1横綱2大関のさびしい陣容。経済同様デフレ状態に陥った(同場所で魁皇が綱取りを成功させ、栃東が10勝出来なければ久々に「横綱大関」が番付に載るところだった)。

 千代大海、魁皇は角番の最多記録を更新、武双山・栃東は関脇からの復帰を経験と、ケガが多くて大関としては不安定な印象の強い4大関だが、優勝は計12回。体さえ良ければ横綱級の地力は持っていたことを証明する。残念ながら武双山は故障が重なり新大関当初から既にピークを過ぎた感があったが、その他3大関はそれぞれ幾たびか綱取りに挑んでいる。

 栃東は史上初めて2度目の大関復帰に成功。千代大海・魁皇・栃東の3大関時代も1年間続き、18年になって外国出身の新鋭琴欧州・白鵬を迎えて4、5大関となった。

5大関時代

 5大関は、上位が安定するには人員が多すぎる状態とあって過渡期に当たることが多く、誰かが抜け出すか、過当競争に敗れた力士が陥落、引退して早々と解消することが多い。1場所で終わったのが3度、最長で6場所だった。平成18年5月から19年5月まで、千代大海・魁皇・栃東・琴欧洲・白鵬が7場所を記録し更新されたが、それ以前に長きに渡って最長期間を誇った5大関時代を取り上げる。最近のケースと違って出世レースが激しく面白かったからだ。

 

①北葉山、佐田乃山、栃ノ海、栃光、豊山(昭和38年3月~39年1月)

 昭和30年代後半、栃若から柏鵬へ主役がバトンタッチした時代。絶対の本命が君臨する時代にあっても、大関の人材は不足しておらず、続けざまに5大関が形成された。36年は先輩大関琴ヶ濱、若羽黒、若き柏鵬に加え、北葉山が昇進して5大関。柏鵬同時昇進、若羽黒陥落後も、37年、出羽一門の佐田の山、栃ノ海、栃光のライバル達が立て続けに昇進し、5大関。そして名人大関琴ヶ濱が引退、入れ替わるように38年3月、大器豊山が圧倒的な成績で学生相撲出身初の大関に昇進して、新たな5大関時代が始まった。

 37年に朝潮、若乃花が引退しており、柏鵬が2横綱として君臨。大鵬の6連覇中に当たる。大関といえども優勝は遠い時代。しかし、この1年間は5人全員が優勝争いに絡み、横綱を狙える実力を示した点で非常に充実していた。そして激しい争いの末、小兵で不利と見られていた栃ノ海が横綱昇進し、充実の5大関時代は幕引きとなったのである。

 大鵬に水を開けられていたとはいえ、大関陣にとって大きな壁であった柏戸が、全勝優勝で復活したものの休場続きだったこともプラスに働いた。もう一つ注目すべき点があり、当時はまだ一門・系統別総当り制。5大関が出羽一門の佐田乃山、栃ノ海、栃光と、時津風部屋の北葉山、豊山と2チームに分かれ、それぞれ仲間内で対戦はなかった。だから5人もいながら大関同士の対戦は6カードしかなかったわけだ。両横綱とは対戦があったが、対戦する上位陣は多くて4、5人だから、2横綱5大関の番付にしては過当競争というほどではなかったかもしれない。とはいえ、弱い横綱大関がいない中での上位戦は厳しいもので、5大関陣の好成績をそれほど割り引いて考えることもない。

 5大関の横綱先陣争いを概観しておく。まず最初の38年3月場所、前の場所優勝を争った期待の佐田の山と新大関豊山が絶不振。栃ノ海は1敗で走りながら故障で休場、北葉山も脱落していく中、栃光がトップを走り、14日目大鵬との1敗同士の決戦には敗れて優勝を逃したが、13勝2敗の好成績。翌場所栃光は綱取り失敗にしたが、新大関負け越しの屈辱から豊山が立ち直り、大鵬との全勝決戦には敗れてしまったが、13勝2敗で次点。7月、綱取りの期待もあった豊山は6連勝スタートしたが、中盤崩れた。優勝争いは北葉山と佐田の山が競り合い、千秋楽1差の直接対決で佐田乃山が追いつき共に13勝2敗。決定戦で北葉山が初優勝した。栃光も上位総なめの12勝と活躍。秋は千秋楽横綱全勝決戦になったため、大関陣は蚊帳の外。綱取り北葉、佐田は前半頑張ったが、上位戦で星を落として10勝どまり。豊山も両横綱と並走していたが、直接対決で連敗し13勝。九州では栃ノ海が2回目の優勝を果たした。やや綱取り争いに出遅れていた栃ノ海だが、14日目1差で追う大鵬を下すなど課題の上位戦を勝ち抜いての栄冠。続く39年初場所、栃ノ海は初日に土が付くが、ストレートで勝ち越した佐田の山と栃光の脱落を横目に全勝大鵬を追う。14日目、大鵬との直接対決に敗れ2敗。平幕に14勝の清国がいて優勝に準ずる成績とはいい難いが、平幕下位は横綱大関とは対戦しない時代というのもあって、実質大鵬に次ぐ成績と認められ、横綱昇進の運びとなった。これをもって強豪揃いの5大関時代は解散した。

 激しい横綱争いはその後も続き、1年後の40年1月に佐田の山が横綱昇進を決めた。3大関となってからは勤続疲労が出たか、揃って成績が悪化。角番が増える。そして41年には栃光、北葉山が引退。豊山の1大関にまで減ってしまうが、ようやく3年半ぶりとなる新大関北の富士、続いて玉乃島が誕生。北玉時代の胎動が聞こえ始めた。

6大関時代

 これまでで同時に在位した大関の最多人数は5人で、通算すればその期間は意外と長い。しかし、そこにもう一人加わって6大関になることはなかった。5人の大関に横綱もいれば、その下の三役力士は場所の半分ほどが上位戦になり、実力者でも勝ち越しがやっとである。しかしそのチャンスは何度かあった。昭和61年5月には保志が関脇で優勝。翌場所も11勝して3場所32勝としたが、あっけなく見送られた。平成18年7月、関脇雅山は14勝して決定戦に進んだ翌場所昇進を狙って10勝、3場所34勝だったがやはり見送りとなった。いずれも1横綱5大関のケースであり、横綱が少なくて大関は全員が強くはないため、関脇に活躍の余地があった。しかし微妙な成績とはいえ見送られたのは、内容以外に前例のない6大関を避けようとした可能性は否めない。大関が欲しい時期とそうでない時期があり、やはり大関飽和状態が昇進基準に影響を与えることはある。本来なら大人数の上位陣を突き破っての好成績だから、むしろ高く評しても良さそうなものなのだが、「番付は生き物」という便利な言葉で片付けられていた。ところが、ついに史上初の出来事が起きた。

 

①琴欧洲、日馬富士、把瑠都、琴奨菊、稀勢の里、鶴竜(平成24年5月~9月)

 琴欧洲が昇進したのは18年1月。当時は先輩大関に千代大海、魁皇、栃東がいて、2場所後に白鵬も加わって5大関となった。白鵬の横綱昇進、先輩日本人大関の引退があって、23年9月には1横綱3大関とスリム化した。だが11月場所琴奨菊、翌場所稀勢の里と連続昇進し5大関に膨れ上がり、さらにここへ安定して二桁を勝っていた関脇鶴竜が虎視眈々と上を狙っていた。
鶴竜は前年にも大関取りのチャンスがあったが9勝に終わり、以降は10勝程度を続けていたが、その間に二人に先を越された。関脇で連続10勝で迎えた24年春は、大関把瑠都が綱取りとあって最低限の連続二桁だった鶴竜はあまり話題にならなかったが、それも幸いしたか13勝を挙げて決定戦進出。最大の問題は把瑠都の綱取り失敗で大関が6人となってしまうことだったが、13日目時点ですでに審判部は当確を示唆していた。


 新しく変わったばかりの審判部長らは、内容なども吟味して、6人目の大関に難色を示すことはなかった。5人目の大関稀勢の里に32勝というラインでの昇進を認めていることも影響したかもしれないが、1年ほど関脇に定着して安定感があり、横綱にも互角に取った実力が評価された。大関が足りている中、直近の星だけを問題にせず総合判断したあたりは進歩的になったと評価できる。それまでの大関候補たちには気の毒であるが。

 アンバランスにも思える1横綱6大関という番付だが、実は見事に当時の勢力図を言い表している。前数年来、白鵬が飛び抜けていて、第2グループであるべき大関は横綱に肉薄しているというよりは、元気な三役力士、特に昇進した3人との差がなかった。番付制度上大関は上がりにくく落ちにくいため、三役力士と地力が逆転しているように見えてもなかなか番付には反映されなかったが、1横綱6大関となってようやく名実伴った。6大関の中では、やはり把瑠都が抜け出て地力があるが、綱取り失敗の原因となったプレッシャー耐力を加味すると、横綱よりも他の大関陣に近い実力と言える。一桁白星に終わることが増えた琴欧洲にしてもまだ他の大関を破る力は十分あった。

 三役には豊ノ島、豪栄道、安美錦あたりが頻繁に顔を出し、大関くらい難なく転がすが、過去の実績は三役での勝ち越しがやっとであり、成績の安定感ではだいぶ差がある。上がってしまえば維持するくらいの力はありそうだが。

 さて、史上初の6大関陣は、いきなり平幕勢の優勝決定戦を許して面目を潰された。1横綱の白鵬が初めて乱調というチャンス。しかし揃ってズルズル星を落とし、一時稀勢の里が抜け出して2差でトップに立ったが連敗。琴欧洲はノーマークで浮上してきた旭天鵬の唯一の上位戦として当てられながら投げ飛ばされて負傷、千秋楽は首位に並ぶ栃煌山に不戦勝を献上して4敗勢のチャンスを潰し、白けさせた。そして稀勢の里は、すでに6敗と不振の把瑠都に敗れ決定戦にも出られず。収穫は6人とも勝越したことだけだった。

 その中で一番最後、千秋楽結びに勝越した日馬富士。ところがこの勝星から32連勝を記録。2場所連続全勝の快進撃で横綱に昇進、6大関時代を解消した。

 意外な力士が抜け出したが、横綱昇進最右翼だった把瑠都は故障によりその翌場所陥落。その後琴欧洲の陥落、鶴竜の昇進があり、29年1月場所後には稀勢の里が昇進、琴奨菊が陥落。結成から5年弱で6人とも大関の座から去った。