平成大相撲30年史

 序.はじめに

 平成15年は、貴乃花・武蔵丸の2横綱ら平成の相撲界を支えてきた英雄達が土俵を去り、代わって新星・朝青龍が新たな時代の覇者に駆け上がろうとする節目の年となった。この15年間を振り返ると、貴乃花という力士を中心として動いてきたと言っても過言ではない。はじめの5年間は年少記録を次々塗り替える快進撃でフィーバーを巻き起こし、次の5年間は大横綱として君臨。最後の5年間は試練の連続となったが、ライバルたちが退場していく中、話題の中心であり続けた。その歩みはすなわち平成大相撲の歩みでもあった。

 この15年間を区切りとして、改めて名場面を取り上げてみようと思う。毎場所朝青龍が独走し、優勝争いがあっけない今日から振り返れば、毎場所それぞれにドラマあり白熱の展開ありで盛り上がりがあった。(平成16年3月記す)

 

 以下、大局的に15年間を5年ごとに区切って振り返る。キリの良い5年という節目で分けたが、偶然にしては出来すぎなくらい、うまい具合に5年ごとで大きな時代の流れができている。その流れを意識してレポートした。キーワードに眼を通してから、一読願いたい。

 

 一.前編(平成元年~5年)

 安定期から、突如激動の戦国時代へ  

「平成戦国」「平幕優勝」「最年少」「兄弟力士」「一千勝」「外国人横綱」「横綱空位」「同部屋横綱」「若貴ブーム」「大関陥落」「世代交代」

 

 元号が変わっても、やはり第一人者は53連勝横綱千代の富士。連勝ストップのショックも、肩の脱臼、突然の悲劇にも打ち克ち、元年秋は全勝、通算勝星も史上最多とし、場所後国民栄誉賞受賞。通算1000勝、幕内通算最多勝、優勝回数は大鵬に迫る31回まで伸ばした。

 その千代の富士の対抗馬となったのは、同部屋の北勝海。平成に入っての優勝回数は5回で並んでいる。元年名古屋には、史上初めて同部屋横綱による決定戦も演じた。故障から立ち直って時代の主役にと期待されたが、3年春の故障を負いながらの優勝で力尽きた。大乃国は昭和最後の一番での53連勝ストップを自信に開花するかに思われたが、元年秋の皆勤負け越しや、2年の4場所連続全休など散々。わずかに立ち直りの兆しを見せたものの、優勝できずに終わった。

 大関では、ベテランの朝潮、北天佑が引退していった一方で、台頭したのが旭富士と小錦。両者横綱を狙って先陣争い。昭和63年最多勝の旭富士は、元年に入っても安定感抜群だったが、賜杯には縁がなく綱に届かず膵臓炎で低迷。代わって不振が続いていた小錦が元年九州で初優勝、以降毎場所好成績を残すようになった。が、その後なかなか優勝できない。九重部屋の2横綱が、両大関にとって厚い壁となって立ち塞がった。ようやく九重の関を突破し、綱取りに成功したのは旭富士だった。病が癒えて2年夏、名古屋と千代の富士との接戦を制して連覇し、63代横綱に昇進した。その他、2年春の巴戦に進出した30歳の霧島が、大方の予想を覆す大変身で大関昇進。3年初場所には賜杯も抱き、小錦と綱取りを争うライバルにのし上がった。

 最初の2年半は、上位陣に若干の入れ替わりがあったが、総じて土俵の秩序は安定していた。上位陣が揃って全勝のまま並走するという場所が2度もあった。その分、三役以下の突き上げは弱かった。昇進した霧島のほか、大関候補はいたが、関脇連続9場所の逆鉾、その弟寺尾も定着はするものの、2ケタ勝つ力はなかった。琴ヶ梅が三役で連続2ケタ勝ったが生かせず。水戸泉、栃乃和歌も故障したりして定着できない。若き金星獲得王安芸乃島と、F1相撲琴錦が最も期待されたが、安定感に欠けていた。

 

   旧勢力にあまり変化がない中で、2年後半からは次々と期待の新星が入幕し始めた。最年少記録で番付を駆け上がる貴花田、曙、若花田、貴闘力、学生相撲出身の久島海、大翔山らホープが大挙して押し寄せ、幕内、十両のベテラン力士が淘汰され始めた。

 そして3年後半から堰を打ったように世代交代が本格化した。まずその口火を切ったのが貴花田。春場所で大鵬以来となる平幕で初日から11連勝の快進撃、この場所は上位陣が意地を見せて待ったをかけたが、翌場所初日、千代の富士から世紀の大金星。貴闘力にも敗れた千代の富士は、引退を発表した。すると、翌名古屋場所で大乃国、4年の前半に旭富士、北勝海が相次いで引退し、豪華絢爛4横綱が1年の間に一人もいなくなってしまった。残された2大関が綱へ向かって激しい一騎打ちを繰り広げ、緊急事態の中で活躍したのは評価できる。しかし、惜しいチャンスはあったが横綱には届かず、土俵の主役は次の世代へと移っていった。

 急激な上位陣の弱体化で、土俵は戦国時代の様相を呈した。千代の富士引退の翌場所、完全にノーマークだった琴富士が独走し、平幕として初めて13日目に優勝。この波乱で戦国時代の幕が明けた。毎場所平幕が優勝争いに絡み、琴錦、水戸泉ら約1年間で4人が平幕優勝。その中の一人が、4年初場所の19歳貴花田。勿論史上最年少の優勝だった。そのライバル曙も同年夏に優勝し、大関へ昇進した。同年秋は貴花田、九州は曙。そして5年初場所ではこの両者が千秋楽決戦を演じ、連覇の曙が横綱に、負けた貴花田も大関に昇進した。横綱空位も4場所で解消し、どうやら戦国時代は曙貴両者によって平定されつつあった。特に曙は3連覇を果たし、不運な横綱見送りを食らった貴ノ花に水を開けた。

 しかしこれを追う勢力も現れた。若貴と呼ばれながら小兵で遅れを取っていた兄・若花田である。5年春、小結で初優勝を果たすと、勢いに乗って名古屋では曙・貴・若の同期生巴戦が実現。そして若も大関へ。この年の後半には、大器武蔵丸と貴ノ浪が大関を窺っていた。新勢力が上位を占め始めた一方で、厳しい戦国時代に大関を張った両雄もついに飲み込まれた。4年九州霧島、そして5年九州小錦と相次ぎ陥落。奇しくも小錦に引導を渡したのは、3連覇に突き進むハワイの後輩・曙だった。だが両雄は、なおも現役に留まって新時代の行方を見守った。

 

 二.中編(平成6年~10年)

 上位5人の顔ぶれに変化なし

「黄金時代」「満員御礼」「復活V」「超安定期」「兄弟横綱」「大関候補」「綱取り」「二子山時代」「大学相撲」「力士大型化」「63組」

 

 前年三連覇で締めて独走時代を予感させていた横綱曙。しかし、黄金時代は訪れなかった。6年春は二子山勢を蹴散らして第一人者の貫禄を示したが、体重増加と一人横綱の無理が祟り、膝の手術を余儀なくされた。7年の前半こそ貴乃花と3場所連続千秋楽相星で対戦し、二強時代に入るかと期待させたが、その後も足腰の故障に悩まされ、5年間で優勝3回。逆転優勝で一矢報いたものの、最後は長期休場で脇役の座さえ務められなかった。

 6年初場所、大関復帰を賭ける小錦は2勝に終わったが、優勝を争った関脇武蔵丸と貴ノ浪が同時昇進。4大関となる。激しい綱取り争いが展開されたが、実力は一つ抜けていた貴ノ花が、曙不在もあって東京場所を悉く制す。ところが苦手の地方場所で二度綱取りに失敗。秋は全勝しながら横審で跳ねられたが、「貴乃花」と改めた九州、意地の連続全勝で遂に頂点に登り詰めた。このときの30連勝は、16年に朝青龍が破るまで平成の最高記録だった。

 そして時代の覇者は貴乃花に。昇進後は、12勝すら決定戦で敗れた7年九州だけで、それ以外はすべて13勝以上を続け、3連覇2回、4連覇1回。横綱相撲で黄金時代を築いた。圧倒的な強さで8年秋を全勝で制し、さあ5連覇だと意気込んだ九州だったが、自身初の休場となった。この場所は11勝4敗で5人による決定戦。全休があっても年間最多勝。存在の大きさを改めて知らしめたが、これ以降稽古量が減り、それまでの圧倒的な強さは失われてしまった。それでも9年は年3回の優勝を果たしたが、10年に入り突如乱れはじめる。体調を崩して強行出場も惨敗で二場所連続途中休場。若貴絶縁騒動などワイドショーも賑わせてしまい、一気に評価を落としてしまった。何とか連覇を果たして秋に優勝20回をマークしたが、この後賜杯に見放されてしまった。貴乃花人気の衰えとともに、相撲人気も不振。連続満員御礼は666日でストップした。

 他の3大関は長く停滞。武蔵丸は6年名古屋で全勝で初優勝、貴に先んじて横綱かと期待されたが、勝負弱さと体重増加でパッとせず、不振に陥った。突き押し相撲から差し身の相撲への転身をはかり、優勝争いに絡むようになるが貴乃花の引き立て役に甘んじた。貴ノ浪は2度決定戦を制すなどしたが、抱えて守勢の相撲は変わらずムラがあり、綱取りはならなかった。強靭な下半身も足首の怪我で不安になってきた。若乃花はなかなか優勝に届かずにいたが、9年初場所素晴しい内容で3回目の優勝。綱取り場所で右足に大怪我を負ったが、よく立ち直りその1年後、貴不調のチャンスに連覇を果たし、史上初の兄弟横綱が誕生となった。しかしすでに満身創痍のピークを過ぎた体、横綱として安定した相撲は取れなかった。

 次の大関と期待された魁皇・武双山らは昇進寸前で故障したり勝負弱さをさらけ出して「候補」のまま。1世代前の大関候補、安芸乃島、琴錦、貴闘力も健闘したがチャンスを生かせず、三賞の数ばかりが増えてベテランの域に。

 この5年間、優勝者はずっと横綱・大関の上位5人衆が占めていた。最初の場所で誕生して以来新大関も、陥落も引退もなく、史上稀に見る安定した時代だった。だが、最後の最後に大波乱、10年納めの九州はベテラン琴錦が7年ぶり平幕優勝。5人衆以外の優勝は、4年名古屋場所以来だった。上位陣に綻びも見え始め、最後の場所で空いた一穴をきっかけに、時代は大きく荒れ始めた。

 

 三.後編(平成11年~15年)

 昇進陥落相次ぐ混迷の時代 巨星ついに堕つ

「大関昇進」「人気低迷」「大関復帰」「公傷制度」「ハワイ勢消滅」

「群雄割拠」「武蔵川時代」「痛みに耐えて」「モンゴルの風」「51組」

 

 前5年の盤石ぶりから打って変わり、群雄割拠の勢力図が描かれた時代。この5年間、1度も全勝力士が出なかったという事実がそれを物語る。平成初期の人気を支えた名力士たちの衰退、引退により、上位の顔ぶれは絶え間なく入れ替わった。「63春組」の時代の後を占めるべき「51組」と呼ばれた世代が伸び悩んで時代を築けず、モンゴル出身力士全盛時代の足音が、もうそこまで聞こえてきた。

 11年、3横綱が不振で毎日のように波乱が起き、休場が相次ぐ荒れ模様。当然下の力士が割って入る隙ができた。初場所、早速千代大海が横綱若乃花を逆転して優勝し、5年ぶりの新大関が誕生。ここに堰は切って落とされた。名古屋では出島がこれまた横綱曙を逆転して優勝、大関に続いた。

 春場所は3横綱1大関が休場する中、古参の2大関による相星決戦となったが、勝った武蔵丸は見事翌場所も制して横綱昇進。この年4度の優勝で第一人者にのし上がる。敗れた貴ノ浪は衰えて同年九州で大関を陥落。対照的な道を歩く岐路となったが、貴ノ浪は大関復帰を果たすなど頑張り、最終的にこの両者の対決は史上最多55回を記録した。

 12年には、若乃花が引退。貴ノ浪は再度の陥落。貴乃花も故障続きで2年も優勝から遠ざかる。黄昏の二子山部屋に変わって、武蔵丸、出島、武双山で6場所連続賜杯を独占した武蔵川部屋の時代が到来した。が、二子山部屋のベテラン・貴闘力が幕尻優勝して一矢報いると、北の湖を超える55場所連続勝ち越しと頑丈な武蔵丸もついにガタが来て初の休場、この年1度の優勝に留まる。

 その隙を突いてさらに新たな力士が台頭した。初場所の優勝をきっかけに遂に昇進した武双山に続いて、幕下・十両を4場所連続優勝の平成の新怪物・雅山が大関へ。夏場所を制した魁皇も念願の大関昇進を果たした。さらに復帰が2件もあり、毎場所出入りが続いた大関は、すっかり薄い壁となってしまった。上位はインフレ番付とも揶揄されたが、13年には早くも出島、雅山が転落。栃東が昇進した14年からは、千代大海・武双山・魁皇・栃東の4大関で落ち着いた。

 不振を極めた古参横綱陣だが、復権し始めた。12年後半は曙が3年ぶりに優勝するなど安定感を取り戻す。実に7年ぶりの年間最多勝をマークしたが、膝の故障でそのまま引退。武蔵丸も1年ぶりに賜杯を抱くと、13年初場所は貴乃花が復活。夏場所も2横綱による決定戦の末、再度貴乃花が優勝したが、右膝の重傷を抱えて強行出場の代償は大きく、7場所連続の全休を強いられた。一方、一人横綱の重責を担うことになった武蔵丸も、手首の故障を抱えながらその間3度の優勝で責任を果たしたが、ともに力士寿命を縮める結果となってしまった。両横綱は14年秋に相星決戦で再戦、武蔵丸が外国出身最多の12回目の優勝を果たしたが、両者ともこれが最後の千秋楽の土俵となり、共に15年に現役を退いた。

 新横綱を目指した争いは、魁皇が大関で3度も優勝したが、綱取り場所に故障が顔を出してフイに。2度の優勝、準優勝もあった千代大海も突き押しの宿命か、続けての活躍は難しかった。栃東は新大関優勝で期待されたが、武双山共々故障がちで角番続き、綱取りどころではなかった。大関陣はじめあまりの休場の多さに公傷制度が厳格化、ついには廃止となった。そんな中、21世紀の始まりと共に入幕した朝青龍が抜群の気迫で番付を駆け上がる。14年にモンゴル人初の大関昇進、優勝を飾ると、貴引退の15年初場所、入れ替わりに横綱昇進を決めた。実質一人横綱のプレッシャー、トラブル続出によるバッシングにも耐えてこの年3回優勝。対する大関陣も残る3場所を分け合って意地を見せた。15年納めの場所での横綱武蔵丸らの引退により、40年にわたって存在感を示したハワイ勢が姿を消した。またも区切りのタイミングで一つの時代が終わった。

 関脇以下では、若の里が三役連続在位記録を更新するが、大関へとつながる大勝ちが続かない。逆に琴光喜は平幕優勝からの連続3場所34勝でも見送られ、顎、肘の故障に不運もあって安定感を欠き、ライバルと目された朝青龍に水を開けられた。土佐ノ海、栃乃洋は金星・三賞は多いが大関は遠い。最後まで大関の夢をあきらめなかった戦国の雄、琴錦、貴闘力は平幕優勝後急速に衰えて引退。安芸乃島は11年秋には千秋楽までトップに並ぶ活躍を見せるなど、地力を示して幕内のまま15年に引退した。寺尾は父鶴ヶ峯の40歳に惜しくも届かず、「史上最多敗」の偉業を残して現役を退いた。ついに若乃花に続く日本人横綱は現れず、次代の新星も外国勢が目立つ。「和製横綱」待望論が言われて久しいが、そもそも「和製横綱」という言葉自体、かつてはなかった。次の5年では国際化が進み、「日本大相撲」の法人名も改めて考えなくてはならない時代になっていることだろう。

 

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<続・平成15年史> 

 四.朝青龍時代(平成16年~平成20年)

 衝撃の独走 突如やってきたモンゴルの時代

 「本格的国際化」「一人横綱」「スピード」「完全制覇」「和製横綱不在」

 「高校相撲」「連覇」「規格外」「大麻汚染」「かわいがり」

 

 前回はホームページ開設当時の所見として、平成の歴史をまとめた。第4章は現在進行形の形で今後の展望を述べた。今回は、第4期(平成10年代後半)の終わりを機に、再度この時代を振り返ろうと思う。

 前年に2人の横綱、最後の昭和幕内力士・安芸乃島も引退、若貴フィーバーの時代を支えた力士たちの時代の終わりを告げた。平成16年5月では元大関貴ノ浪、11月は大関武双山も土俵を去っている。

 急激に新時代へ突入した平成16年だが、その幕開けはセンセーショナルなものだった。新世代の代表、この場所から名実共に一人横綱となった朝青龍。圧倒的なスピード相撲で他を圧倒、前の5年間は遂に一度もなかった7年ぶりの全勝優勝を果たした。内容も衝撃的で、琴光喜戦での吊り落としは国技館に戦慄が走った。翌場所も全勝優勝を果たした朝青龍は、平成の新記録となる35連勝(昭和以降4位)を記録。年5度の優勝を飾った。まさに朝青龍独走の時代が始まった。翌年はさらに後続を引き離す。初場所から27連勝を記録。独走優勝が続き、9月、大鵬以来の6連覇は、琴欧州に一時2差とされながら大逆転で達成。そして11月、14日目魁皇を下すと、年間完全制覇、7場所連続優勝そして年間史上最多勝利と、前人未到の大記録を3つ同時に達成した。18年も前半もたついたが、最後は3連覇で締めた。

 まさに無敵の朝青龍黄金期で、白熱した優勝争いがなかなか見られなかった時代。他のライバル力士はどうしていたか。16年終盤に魁皇が綱取りを狙い、地元九州の千秋楽は朝青龍を下し横綱決定かと座布団の嵐。結局見送られ批判の嵐。その後急速に衰えて角番脱出でヒヤヒヤさせながらも大関在位は史上2位に。18年前半は、栃東が朝青龍の8連覇を阻止してチャンスが訪れたが、2場所に渡る綱取りは失敗に終わる。度々朝青龍を苦しめた大関も、故障に泣かされ2度の大関陥落を経験。19年に脳卒中の跡が見つかったことから余力を残したまま引退した。最古参大関千代大海も、たまに優勝争いに顔は出すものの衰えていった。魁皇共々角番を量産して記録を更新してしまったが、大関在位史上1位に達した。この3大関が長く君臨していたが、公傷廃止もあって無理な出場も目立ち、毎場所横綱に独走を許しては批判を浴びてしまった。

 新たな大関もなかなか誕生しなかった。地力は大関級で朝青龍にも強かった若の里は何度もチャンスを逃して失敗。5年ぶり大関復帰を狙った雅山も、関脇で14勝するなど3場所34勝を記録したが見送られた。琴光喜は朝青龍に27連敗するなど伸び悩んで何度も好機を逃し、ようやく昇進を果たしたのは30代になった19年。関脇の最多在位記録をマークした。栃東以来4年新大関が出なかったが、この壁を破ったのが琴欧州。欧州から初の大関に。精神的に脆く、昇進後は勢いが消えたが20年に念願の初優勝を果たした。欧州からは先駆者黒海のグルジア、解雇されたが兄弟幕内力士の露鵬・白露山らのロシア、怪人把瑠都のエストニアなど東欧から続々と新勢力が輩出している。

 

 「青」一色の角界に風穴を開けたのは、やはりモンゴル出身の「白」だった。来日当初は体が小さく貰い手がなかった原石は、大鵬の如く出世に伴ってグングンと大きくなった。新入幕にして早くも12勝、千秋楽は平幕優勝を目前にした北勝力を止め、大物の予感を十分感じさせた。三役でやや停滞し琴欧州に先を越されたが、2場所後の18年春に大関昇進を決定。新大関で初優勝を飾ると、双葉山以来の2場所突破は微妙な見送りに遭ったが、19年5月に全勝で連覇を飾り、21歳で横綱昇進を果たした。

 4年も続いた一人横綱時代が遂に終わり、久しぶりの2横綱の時代に。その最初の場所は朝青龍が意地を見せて制したが、その直後秋巡業を休場しながら母国でサッカーをしているのが発覚し、2場所出場停止処分。白鵬がその2場所をしっかり埋めてこの年4回優勝し、4年間最強の座を欲しいままにした朝青龍を上回った。朝青龍復帰の20年は、青・白、雌雄決する年となった。初場所・春場所と連続で相星決戦となり、賜杯を分け合い。夏も同成績で、決着後に2人が睨み合う醜態をさらしたが、遺恨もまた待望の二強時代を盛り上げた。ところが、また朝青龍が不振、休場がちなり、復帰に向けての姿勢も横審の心証悪く、引退勧告寸前の窮地に。対照的に白鵬は下半期を3連覇。二強時代を経ずに白鵬時代だという勢いで優勝回数を伸ばしている。

 これを追う勢力も19年辺りから多士多彩に。同世代の白鵬には執念を燃やす力士は多く、中でも同年入門のモンゴル出身・安馬は太刀持ちを断るほど。再三白鵬と熱戦を繰り広げるうち、120キロ台の軽量ながら三役定着。20年は関脇を維持し、九州では1分半にも及ぶ熱のこもった同点決勝を演じ、大関昇進を果たした。

 

 

 五. 白鵬時代(平成21年~平成25年)

 さらなる一強時代 本場所中止、相撲存亡の危機も

「最強横綱」「野球賭博」「八百長」「外国勢独占」「連勝記録」「超大型化」

「6大関」「技能審査場所」「通算記録」「全勝合戦」「一門再編」

 

 ついに第五章。すでに一五年史として完成している相撲史に追記する形とする。15年史は貴乃花らが主役。その後は10年は朝青龍、白鵬を中心としたモンゴル勢の時代と捉えられる。25年史としてまとめ直そうかとも考えたが、白鵬が変わらず圧倒し次の主役も混沌する中ではまとめづらく、やはり30年史として編纂することとする。

 朝青龍から白鵬へ覇権が移ろうとしていた。しかし先輩横綱は懸命の抵抗を見せる。4年前に朝青龍が更新したばかりの年間84勝を、さらに2つ上回る86勝4敗を記録した21年の白鵬。朝青龍との楽日決戦を6場所すべて制したが、初、秋と朝青龍が決定戦で2度賜杯を奪い取る。夏も大関3場所目の日馬富士に決定戦で敗れ、初優勝を献上した白鵬。圧倒的な強さの反面、まだ若さが見えた。22年の初場所も制した朝青龍だったが、この場所中の事件が原因で事実上勧告される形で電撃的引退。稀代のダークヒーローは、憎らしいほどの勝負強さを残して突然去った。二強時代の完全決着をつけきれないまま一人横綱となってしまった白鵬だが、ライバルを失ったショックで(?)負けることを忘れてしまったようだ。初場所13日目で早々に3敗目を喫して脱落したが、翌日から鬼神のごとく勝ち進む。春、夏、名古屋と15日制で初の3連続全勝を果たし、平成1位の朝青龍の35、そして大鵬の45連勝をクリア。さらに翌場所千代の富士の53連勝をも上回り戦後最長、そのまま4場所連続全勝優勝を飾った。双葉山の69を捕えることは確実と思われた九州場所、2日目平幕稀勢の里の怒涛の攻めに屈して連勝は63でストップした。それでもこの場所1敗に留め、年間勝利は前年に続く86勝。連覇は翌年名古屋まで最多タイの7まで伸びた。まさに最強の横綱として君臨した。

 そんな横綱の足を引っ張ったのは、残念ながら土俵外での相次ぐ力士の不祥事だった。19年、20年に起こった時太山事件、ロシア勢が解雇された大麻事件の影響も深刻だったが、22年に起こった野球賭博、23年の八百長事件による角界のダメージは計り知れなかった。野球賭博事件では大関琴光喜らが解雇、多くの力士が謹慎処分を受けて理事長が辞任。22年名古屋を制した白鵬だが、天皇賜杯自粛に無念の涙。その賭博事件での捜査から八百長をめぐるやり取りを行ったメールが明らかになり、20名以上の力士らが引退勧告や解雇処分となった。春場所は中止になり、昭和33年以来の年6場所制が崩れた。平成19年に急遽力士名を除いたために100年ぶりに生じた穴空き番付が、その後頻発。大量の穴埋め昇進でレベルは低下、NHKの中継中止もあり、ファンは離れて会場は中段までガラガラ、どん底に陥った。残された力士は、折しも本場所のなくなった3月に起こった東日本大震災の復興支援に奔走、信頼回復に努め、5月の夏場所は無料公開の「技量審査場所」と称し、薄暗い国技館で再スタートを切った。

 それからしばらく、さすがの白鵬にも陰りが見えた。もちろん最強の座は変わらないが全勝や連覇には至らず、24年5月には中盤3連敗で休場寸前にまで追い込まれるなど、昇進後最長となる3場所賜杯から遠ざかった。その間に台頭したのは日馬富士。大関昇進直後に初優勝してから、ろくに優勝争いにも絡めていなかった軽量大関は、23年名古屋で白鵬の8連覇を阻止。2度目の綱取りは失敗したが、1年後の名古屋、秋と連続全勝の快挙で文句なしの昇進。直後には交互に全勝優勝して二強時代再来かと期待されたが、復調した白鵬が春場所初日から43連勝を記録。またもや稀勢の里に止められたものの、2度目の4連覇を果たして黄金時代を継続。昇進後1年で、9勝2度、10勝2度の日馬富士には短命論が囁かれるが、九州で相星決戦を制して面目を保った。両者の頑張りで稀に見るハイレベルな優勝ラインが続いている。

 かくて相撲暗黒時代ともいえる激動の5年は、王者白鵬が記録的な強さで君臨し続けた。初頭は晩年の朝青龍、最後は日馬富士というライバルが自慢の集中力で一矢報いる活躍をみせ、モンゴル人力士の間で賜杯を回していた。他にライバルとなりうる力士もいたが、ことごとく関脇時代に対抗馬と期待される大活躍を見せながら大関昇進後に失速した。20年にヨーロッパ勢初優勝を記録した琴欧洲も復調しかけては停滞。二桁がやっとの大関のまま在位だけが長くなった。この5年、モンゴル勢以外で唯一優勝した把瑠都はもっとも横綱に近いと言われ続けながら取りこぼしが多く、未完のままあっけない最期を迎えた。

 千代大海、魁皇と10年以上在位した大関が退いて後を追う大関レースは過熱。特に23年は琴奨菊、稀勢の里、鶴竜が近年珍しい3関脇を形成し、3人ともに大関取りの権利を持つ激しい争いとなった。結局3人は相次いで昇進し、24年には史上初の6大関時代となった。しかし横綱との距離はなかなか縮まらない。四股名とは対照的にじわじわと地力をつけてきた稀勢の里は安定感が増し、賜杯も手に届くところまで成長。時に両横綱を圧倒する実力を見せる。日本人横綱への挑戦は続く。他の2人はパッとしないまま。日馬富士の昇進、欧州勢の陥落で26年は3大関に絞られ、大関バブルはあっという間に崩壊した。次を狙う筆頭候補の豪栄道は関脇に10場所以上座る安定感はあるが二桁が続かず、栃煌山や妙義龍ら三役常連力士も安定感には欠ける。年齢的にも稀勢の里と同じ61組だから、急成長は望みがたい。千代大龍、常幸龍、遠藤らスピード出世の大卒力士が刺激を与えるか。それとも高安、舛ノ山ら平成生まれの叩き上げがブレイクするか。

 国際的な観点で見ると、頂上は外国勢の席巻がさらに進んだ。各部屋1人の外国人枠が設定されてもその勢いは留まるところを知らず、幕内の半数以上を占める場所もあった。魁皇が引退し、23年秋には横綱大関に日本人力士が途絶えた(霧島が陥落した平成5年初場所以来)。直後に琴奨菊、稀勢の里が相次いで昇進したとはいえ、和製横綱は若乃花を最後に15年も生まれていない。それもそのはず、結局この5年で日本人力士の優勝は24年夏場所の平幕・旭天鵬のみ(旭天鵬はモンゴル出身だから、和製力士では18年初場所の栃東以降途絶えたまま。)外国勢も良い話ばかりではない。モンゴル勢は少数精鋭の時代に比べると質が低下。引退力士が訴訟を起こすなどトラブルも発生。八百長事件では十両力士を中心に大量に処分された。横綱朝青龍は暴力事件で遂に強制引退。それでも代わって日馬富士が横綱に、鶴竜が大関に、有望株もコンスタントに誕生している。一方欧州勢は、大麻事件で3人の解雇者を出した20年以降大きな不祥事はなかったものの、伸び悩みが目立った。25年には把瑠都、黒海、そして阿覧も突然引退。11月場所では琴欧洲が8年も在位した大関から陥落。まだ若い大器栃ノ心、小兵隆の山も幕下陥落と、力士寿命の短さを露呈して急速に表舞台から姿を消している。ブラジル出身の魁聖、アフリカからイスラム教徒の大砂嵐がスピード出世を果たし、久々のハワイ勢として武蔵丸の甥がデビュー。ハーフ力士なども活躍し、次の5年で新たな国際色が生まれるかもしれない。

六.白鵬時代後期(平成26年〜平成31年)

 大記録ラッシュの白鵬ら3横綱に日本勢が挑む

 平成最後の5年余をレビューし、平成15年史として書き起こした本相撲史を締めくくる。

 土俵上の攻防はさておき、急激な人気回復が特筆される。平成初期の爆発的な若貴ブームから、徐々に落ち着いて平成9年に連続大入りがストップ。15年の貴乃花引退以降、日本人横綱が不在となってからは急激に人気低迷。明らかに空席が目立ち、さらに度重なる不祥事が客離れに拍車をかけた。挙句の果てに八百長問題による23年春場所の中止。NHK中継の継続も危ぶまれた。ところが、遠藤ら人気力士の登場で俄かにファンが戻り始め、平成最後の5年間はチケットが即完売するほど盛況を取り戻した。ただ土俵外のトラブルは絶えず、足の引っ張り合いのようなスキャンダルが続出。現役横綱が、立行司が、不祥事で引責引退。そして平成前期の土俵の主役で、年寄としても理事長選を戦うまで存在感を高めた貴乃花が、弟子の貴ノ岩が暴行された日馬富士事件で強硬に出て執行部と対立。結局身内の暴力事件もあり平年寄に降格、自ら起ち上げた一門も離れ、30年10月には電撃的に退職。平成相撲界は、ある意味貴乃花に始まり、貴乃花に終わったのか。(北勝海に始まり北勝海に終わったと言えなくもない。)

   土俵上では、前半は白鵬の黄金時代が続いた。食い下がっていた日馬富士は失速。代わって大関で停滞していた鶴竜が突如覚醒。26年初場所、全勝白鵬を破って決定戦に持ち込み、春は初優勝。初挑戦で横綱を手にした。長く関脇を保った豪栄道もついに大関に昇進したが、モンゴル人三横綱、日本人三大関の新体制は、白鵬の第2のピークとも言える時代になった。26年からは自身2度目の6連覇を記録し、不滅と言われた大鵬の最多優勝記録32回を一気に抜き去った。その後もコンスタントに優勝を重ね、40の大台に乗せた。27年9月に横綱として初の休場で数々の連続記録が途絶えてからは、休場が増えて他の力士にも優勝のチャンスが広がった。とはいえ日馬富士、鶴竜がその隙を逃さず、モンゴル帝国の壁は依然ぶ厚かった。

 ようやく日本勢が一矢報いたのは、28年。初場所は大関琴奨菊が3横綱を連破し初優勝。ちょうど10年ぶりの日本出身力士の優勝を果たした。同年秋は豪栄道が全勝。28年の年間最多勝をマークした稀勢の里も、29年初場所にようやく初優勝を果たして横綱に推挙された。待望の和製横綱誕生は10年の若乃花以来。貴乃花引退後14年にわたるブランクを閉じた。さらに弟弟子の高安も本格化し、2場所後大関へ。

 稀勢の里の昇進で4横綱時代となり、群雄割拠の優勝争いが期待されたが、すでに30歳を超えた横綱大関陣には早くも衰えが見えた。休場がちでこの4横綱はわずか11日しか揃わず、29年九州場所後日馬富士が引退して5場所で幕を閉じた。新横綱優勝を果たした稀勢の里だが、その場所で負った故障から立ち直れず史上ワーストの8連続休場。最後は8連敗を喫し、平成最後の国技館の土俵で最後を迎えた。

 中堅、若手に人気力士は事欠かなかったが、三役以上の実力者となるとなかなか育たない。稀勢と同じ61年生の世代は大関候補だった栃煌山、妙義龍が失速、隠岐の海、宝富士、勢、魁聖らが晩成の花を咲かせて関脇まで昇るが定着には至らず。超晩成の嘉風、玉鷲が三役で奮起した活躍は見事だったが、若手の大関候補は苦労した。遠藤、大砂嵐ら新鋭は怪我で苦労し、その間にモンゴル出身の巨漢2人が彗星の如く現れる。26年秋の新入幕で横綱も倒し13勝した逸ノ城が登場。さらに高校の先輩でもある照ノ富士がこれを凌駕し、三役わずか2場所で優勝も果たし大関に。ところが逸ノ城は腰痛を抱えて低迷、照ノ富士はすぐにも横綱かという勢いだったが、度重なる故障に悩まされて何度も二桁黒星を喫して2年で陥落。その後も相撲が取れる状態ではなく、大関、優勝経験者として史上初めて関取の座を失った。

 少数精鋭の横綱が君臨する時代が10年続いて金星の価値は高騰していたが、高齢横綱が並んでゴールドラッシュに。台頭する新鋭、ベテランも若い頃の鬱憤を晴らすように次々金星を奪っていった。潰し合いも激しく、幕内上位の勢力図は混沌としてきた。30年初場所を制した平幕の栃ノ心は2場所後大関へ。三役に定着していた御嶽海は名古屋初優勝。さらに九州場所、貴乃花部屋消滅直後に小結貴景勝が優勝。31年初場所は34歳玉鷲が連覇を狙う貴景勝を退け史上2位の高齢初優勝。いずれも横綱が不在になった場所ではあったが、勢いのある力士が賜杯に届く乱世になった。

 休場がちの2横綱、横綱不在時にも賜杯を奪えない大関陣。まだ上位を凌駕するほどではない新鋭たち。白鵬独走時代は終わったが、世代交代というにはまだベテランも元気。微妙な状態で平成の終焉を迎えた。