テーマ別平成史


ライバル列伝

 テーマ別平成史、第1回は、好敵手と呼ばれた力士同士の対決を列挙する。平成の土俵を彩った超好カードから、知る人ぞ知る因縁の対決まで、思いつくものから振り返っていきたい。どんな大横綱も人気力士も、相手がいないと相撲は取れない。力士1人を追うのでもなく、時代を追うのでもなく、「対決」にスポットを当てることで、平成という時代が見えてくるはずだ。


曙(21-21)貴乃花

有名A拮抗A並立A因縁A 

【横綱対決】【同期生】【決定戦3回】【相星決戦】【逆転V】【同時昇進】【出世争い】

 

 言わずと知れた平成の名勝負。同期生で序ノ口から顔が会い、出世争いを展開。先行する貴花田を曙が逆転。初優勝は1差で先んじられたが、2場所後に賜杯を得て先に大関へ。楽日決戦を戦って横綱、大関に同時昇進。しばらく曙が優位に立ったが、平成6年九州の大熱戦の末、連続全勝した貴乃花との2横綱時代が訪れた。

 2横綱時代は3年半。千秋楽結びには必ず両者の対決が続いた。横綱としての併存期間は丸6年に及ぶ。その間は黄金時代を築いた貴乃花が圧倒、優勝回数は22対11とダブルスコアになったが、曙も最後に少し盛り返し、最終的な対戦成績では全くの五分。公式記録となる幕内本割の対戦成績だけでなく、十両以下や決定戦の勝敗を含めた成績も25対25。これ以上ない「ザ・ライバル」である。

 ケチをつけるなら、戦前の予想通りになることが多かったくらいか。曙優位の時代も、貴乃花優位の時代も、ああやっぱりといった感じで一方的に終わることが多かった。本当の意味でどちらが勝つかわからなかったのは、最後の平成12年くらいか。それでも大関貴ノ花が不敬なほどの睨みを見せて意地を見せたり、優勝から遠ざかった曙が自力で逆転優勝したりと意外性もなかったわけではない。

朝青龍(12-13)白鵬

有名A拮抗B並立B因縁B 

【横綱対決】【同郷】【決定戦4回】【相星決戦】【睨み合い】【熱戦】【二横綱時代】

 

 史上4位・優勝25回対史上1位・優勝41回の横綱の対戦。大横綱同士はほとんどがすれ違いに終わるものだが、20回も対戦を数えた例は珍しい。朝青龍時代から白鵬時代への過渡期と見られがちだが、両者の2横綱時代は3年余り続いており、曙ー貴と同等。歴代でも長い部類に入る。朝青龍の横綱2年目、黄金時代を迎えた頃に現れたのが白鵬で、新入幕ながら千秋楽は優勝に王手を掛けた北勝力への刺客として当てられ、老獪な変化で朝青龍の逆転優勝をアシスト。このときはご褒美のキスをいただいたが(迷惑?)、2回目の横綱挑戦で逆転勝ち、翌年には立合い変化を見せて睨みつけられるなど、早くも緊張関係となった。18年には初のモンゴル勢優勝決定戦で熱戦を演じ、白鵬が大関に。白鵬初の綱取り場所では、朝青龍が早々に2差をつけて阻んだが、翌年2度目となる決定戦は、変化で白鵬が取った。そして翌場所、今度は堂々撃破して全勝、横綱に並んだ。

 初の横綱同士の対戦では、朝青龍が速攻で制して賜杯を奪還したが、直後サッカー事件で2場所出場停止。その2場所を制した白鵬、復帰した朝青龍との相星決戦を力相撲の末制し3連覇とする。翌場所も相星決戦となるが、今度は朝青龍が雪辱。続く場所は初めて消化試合となったが、引き落とした朝青龍のダメ押しに白鵬が押し返し、土俵上で一触即発の醜態も演じている。その後不安定になった朝青龍だが、翌21年は86勝4敗の年間成績を誇った白鵬に決定戦で2度苦汁を飲ませ、完全独走は許さない。だが本割では同年の千秋楽対決6戦、続く22年1月の朝青龍現役最後となった一番も、全て白鵬が取って遂に対戦成績を逆転した。

 本割の対戦成績は白鵬13勝、朝青龍12勝。決定戦は白鵬1勝、朝青龍3勝で、ほぼ互角。横綱並立中の優勝回数は、白鵬9、朝青龍5。朝青龍は力士生活晩年に差し掛かり休場がちで倍近く差がついたが、何とか二強と言えるだけの粘りを見せた。

 それぞれに一時代を築き、2人で15年間余に渡り大横綱ぶりを見せ続けたのだから、並立期間だけでなく、両者の一強時代をまとめて朝白時代とか青白時代とか、後世称されてもおかしくはない。

白鵬(45-16)稀勢の里

有名A拮抗D並立C因縁A

【同世代】【連勝阻止】【昇進阻止】【対戦回数】

 「モンゴル勢の最高傑作」対「日本国民の希望」。史上2位18歳の若さで幕内の座を射止め、大いに期待されながらも三役で止まっていた未完の大器が再びクローズアップされるようになったのが、22年九州での白鵬64連勝阻止。翌場所も稀勢の里が連勝したが、その2番がなければ100連勝に届いている。当時は唯一の敵だった。

 自信をつけた稀勢の里は、1年後大関となる。すぐにもう一つ上を期待されたが、白鵬が天敵のように立ちはだかった。単発で破ることはあっても、優勝争いに関わる際には必ず白鵬に期待を打ち砕かれた。史上最多優勝を決定づける一番など、大半は引き立て役に回り、対戦成績では圧倒されている。

 ようやく初優勝を決め、横綱昇進にもほぼGOサインの出る中、白鵬が一矢報いようかという千秋楽対決で逆転勝ちした稀勢の里。遂に横綱同士となって、順調なら史上最多対戦回数も更新するのではと思われたが、休場が相次ぎ、横綱同士での対決はわずか1度に終わった。

 12〜14日目の全勝対決はあったが、優勝のかかった楽日決戦は実現しなかったのが残念。

稀勢の里(30-36)琴奨菊

有名C拮抗B並立B因縁A

【最多対戦】【同門】【出世争い】【大関対決】【昇進阻止】【明暗】

 現在最多対戦回数を誇るカード。

    同時期に入幕し、大関昇進も1場所違い。モンゴル全盛時代に日本人大関として支えた盟友。同門でもあり、二所一門連合稽古などで鍛えあった仲でもあるが、土俵の上では互いに容赦なし。

 5年間並んでいた大関時代、横綱に迫る稀勢の里と、怪我も多く二桁勝利も稀な琴奨菊と、徐々に差がついたが、元々相口は琴奨菊の方がよかった。相四つだと腰が低い方が有利になるのか。23年九州の千秋楽は、稀勢の里が内定していた大関昇進に水を差すような圧勝。稀勢の里が13連勝して白鵬と争った場所でも、得意のがぶり寄りで望みを断ち切るなど苦しめた。

    そして28年初場所で先に優勝を果たしたのも琴奨菊。悲願の10年ぶり日本出身力士Vを許し、大いに発奮したであろう稀勢の里は、翌場所めったに見せない変化で痛恨の2敗目を与えて綱取りに待ったをかけると、1年後の29年初場所でついに初優勝を果たす。奇しくもこの場所で琴奨菊は大関を陥落するが、稀勢にこの場所唯一の土をつけて意地を示した。翌場所大関復帰へあと1歩の9勝を記録したが、連覇した稀勢の里に土俵際で逆転されたのが痛かった。その後も、平幕に落ちた琴奨菊が金星を奪って途中休場に追い込むなど、対戦回数だけでなく、因縁も浅からぬ関係である。

白鵬(36-21)日馬富士

有名B拮抗C並立C因縁B

【楽日全勝決戦】【相星決戦】【決定戦2】【好対照】【同胞】【同門】【同世代】

 

 短いながらも24年頃は激しく覇権を争い、2人で6場所で5度の全勝を記録した。鶴竜の昇進まで、1年半横綱に並立し、白鵬6回、日馬富士2回と優勝を記録。

 1歳違い、同じ16年に入幕したモンゴル勢同士。白鵬が横綱昇進した際、同じ一門ながら当時の安馬は太刀持ちを打診されたが、これを断るなど強烈なライバル意識を燃やし、20年には決定戦を戦い、強引な投げにねじ伏せられたものの大関へ。決定戦で雪辱し初優勝、2度目の賜杯は白鵬の新記録8連覇を阻止するものだった。

 鋭く突っ込んで中に入って電光石火の速攻を狙う日馬富士と、食い下がる相手を組み止めてじっくり起こして胸を合わせようとする白鵬。時に変化あり、奇手もあり。タイプの異なる両者の高いレベルでの攻防は、内容的にも満足できる熱戦が多く繰り広げられた。

   何といっても特筆すべきは、24年7月の楽日全勝決戦。29年ぶりの頂上決戦に湧き、日馬富士はこれを制した勢いで翌場所も勝ち、2場所連続全勝を記録。最高位を手に入れた。

    一時は二強の構図に持ち込もうかという勢いだった日馬富士だが、満身創痍で対抗は難しく、年1回のチャンスを活かして優勝するのがやっと。差がついた場所で意地を見せるのは難しくなってきた。

    最後は、白鵬の説教を聞く姿勢に怒った日馬富士が、貴ノ岩を殴打した事件で終末。凌ぎを削るべき両雄の残念な共闘が悲劇を生み、突然の別れとなった。

貴乃花(29-19)武蔵丸

有名B拮抗B並立C因縁B

【横綱対決】【二横綱時代】【決定戦4】【相星決戦】【最終決戦】

 それなりの均衡を形成しながら、影に隠れてしまうカードがある。曙とのライバル関係、若貴兄弟としてのフィーバーが有名な貴乃花と、武蔵丸との取組がそれだ。パワーのある武蔵丸は若い頃には難敵だったが、全盛期には大関で停滞する巨漢をすっかりカモにして、優勝の機会を尽く摘んでいた。

 ところが、全盛期を過ぎて怪我に苦しみ始めた頃に武蔵丸が横綱昇進。すると右差しを新たな武器にした武蔵丸の圧力に劣勢を強いられ、横綱同士での対戦では、本割で勝ったのがわずか1度だけ。それでも優勝決定戦では、世紀を跨いでの復活に、あの鬼の形相の強行出場にと2戦2勝。優勝を激しく争った場所もあったが、番付上は13年3月から2年2横綱として並立したうち、揃って皆勤はわずか4場所。

 優勝決定戦で4度も顔を合わせ、二強時代と呼ぶには、両者が万全の状態で対戦する機会があまりに少なかった。

   だがライバル関係の終末は劇的だった。手負いの相手に賜杯を譲った屈辱をぶつける機会を待っていた武蔵丸は一人横綱として耐え、8場所ぶりに復帰した貴乃花との相星決戦で雪辱した14年9月が、両者にとって最後の千秋楽の土俵。膝に無理を強いた貴乃花、首の悪化を隠して留守を埋めた武蔵丸も限界が来て、共に翌年引退。同時に和製横綱もハワイ勢も途絶えて平成前期は終わり、突如モンゴルの時代がやってきた。

武蔵丸(37-21)貴ノ浪

有名B拮抗C並立A因縁B

【最多対戦】【大関対決】【同時昇進】【相星決戦】【明暗】

 同時昇進から5年あまりも大関として並び立った両者。貴乃花、曙の活躍に隠れながらも、実力派大関として確かな存在感を発揮。大型力士同士ながら、武蔵丸が突き押しで圧倒しつづけたかと思えば、貴ノ浪が変則的な動きでどツボにはめて7連勝したりとシーソーゲーム。取り直しが取り直しになる熱戦もあった。2人の後には5年も大関昇進がなく、若乃花の横綱昇進により最後の1年は2大関の時代になった。

 明暗が別れたのが、ついに後続の新大関が誕生した11年3月。その新大関と3横綱が休場してしまい、初めてとなる結びの一番での顔合わせは、楽日相星決戦。これを制した武蔵丸は翌場所も制してついに横綱へ。低迷する先輩横綱に代わって存在感を示し始める。一方貴ノ浪は怪我で急速に衰え、その年の九州で6年努めた大関を陥落。決戦が大きな分岐点になった。

 平幕に落ちても健闘した貴ノ浪は、一時10連敗と力の差をつけられても諦めず、自身初となる金星を奪うなど最後は3連勝してみせ、1年長く土俵に留まった。幕内昇進も同時の二人が重ねた対戦回数58は、北の富士ー清國を抜いて当時の最多記録となった。

北勝海(14-20)大乃国

有名B拮抗B並立B因縁A

【横綱対決】【逆転V】【同郷】【同世代】【出世争い】【最終決戦】

 同郷で1歳違い。柔道で対戦もしていた両者は、共に昭和の終わりに横綱に昇進し、平成まで戦った。大物と期待されたのは大乃国。巨体を活かして先に大関に昇進、翌年北勝海は初優勝を果たし、地位でも追いつく。2度めの優勝を果たした北勝海が綱取りに挑んだ62年夏場所、火花散る名勝負を繰り広げる。覚醒した全勝大乃国と1敗北勝海の楽日決戦。張り手を繰り出し、足を飛ばし、なりふり構わぬ北勝海の攻めを、堂々と受け止めて圧倒した大乃国が全勝優勝。横綱相撲を取られた屈辱を味わいながら横綱に推挙された北勝海。翌場所は千秋楽に雪辱し、3敗となった大乃国の綱取りはお預けに。続く秋場所14日目優勝に王手をかけた全勝北勝海に一矢報いたのが大乃国。1差で迎えた千秋楽は、両者とも勝って北勝海が逃げ切ったが、大乃国も最高位に手が届いた。

 63年春は、1差で千秋楽横綱同士の対戦となり、大乃国が逆転優勝。合口の悪さが出た。

 平成に入ると潮目が変わった。元年夏は勝ったほうが旭富士との決定戦進出という相星対決で誤審。北勝海の手付きが見逃された。秋は大乃国が7勝7敗での対戦、勝負はあっけなく、北勝海が15日制初の横綱負け越しに追い込むこととなった。

 最後の対決は、3年春。長い不振から立ち直って2年ぶりに優勝争いに絡んだ大乃国、14日目に1敗同士でぶつかったが、北勝海が寄り倒して勝った。その際、北勝海は足を負傷。千秋楽はひた隠しにして望んだが、先に大乃国が絶不調の霧島に敗れて優勝決定。後から出てきた北勝海は全く相撲にならず、大乃国は取りこぼさなければ復活優勝だったのにと惜しまれた。両者翌場所全休、大乃国は続く名古屋で引退。北勝海もその怪我以降満足に相撲が取れず翌年引退。激しい直接対決が実質的に最後の晴れ舞台となった。

 実績では優勝8回と2回の大差がついたが、対戦成績は6差で大乃国。節目節目の重要な場面で顔が合った。

曙(18-17)若乃花

有名B拮抗A並立B因縁B

【出世争い】【横綱対決】【同期生】【決定戦】

 63春組の同期。貴乃花を加えた3人で巴戦演じ、3横綱時代も形成した。

学年で2つ違う曙と若乃花は、新十両と新入幕が同時。曙、貴が先にブレイクしたが、若も負けじと3年九州で新三役となり、番付を逆転。4年初場所は3人で三賞6つを獲得

夏場所、曙は優勝争い首位を走り千秋楽、唯一1差で追っていた若花田との一騎打ち。本割で圧倒した曙が初優勝と大関昇進を決めた。翌年初場所曙は若花田に2敗目をつけられたが、そのまま走って連覇で横綱昇進。久しぶりに一矢報いた若花田も技能賞を得て1年ぶりの三役復帰。するとその場所、新横綱を取り直しの熱戦の末、内掛けからの見事な下手投げに破り、そのまま逃げ切って初優勝。翌場所も曙を破って大関取りに持ち込む。順調に二桁をクリアした若花田、13日目は相星の曙だったが、ここはキラーぶり発揮とはならず一歩後退。しかし千秋楽に貴ノ花が曙を破って同期生3人による巴戦が実現した。この舞台では曙が若貴を圧倒して前2場所の鬱憤を晴らす横綱初優勝。

 その後横綱対大関としての対戦が続いたが、小兵の若乃花は超巨漢相手に互角の星取り。平成8年には河津掛けで仰向けに引っくり返して負傷させるなど4連勝、勝てば優勝の決まった九州では結びで曙に突き倒されて5人による決定戦に持ち込まれたが、翌場所雪辱の下手投げで3度めの優勝を決めた。10年初場所は土俵際で若乃花がうっちゃると、土俵下に落ちた曙は悶絶、取り直しになったが脳震盪気味で力なく転がった。翌場所、若乃花は曙に連勝を止められ1差となるが逃げ切り、翌場所の綱取りでは14日目曙を突き落として連覇に王手。遂に横綱昇進を決めた。

 横綱同士としては12場所並び立ったが、最初の2場所対戦し、その後顔を合わせることはなかったのは残念。対戦成績はほぼタイ。十両以下4度の対戦も相星で、決定戦での1勝分だけ曙が多い。若乃花引退後の4場所で曙は3年ぶりの優勝など2回賜杯を抱き、この年の年間最多勝に。節目節目で曙が一瞬にして圧倒する場面も印象に残っていたが、印象以上に苦しめられていた。

武双山(17-31)魁皇

有名C拮抗B並立B因縁B

【大関対決】【同学年】【出世争い】

 同い年。かたや大学相撲から幕下付出、幕下を2場所で突破、わずか1年で関脇に達した平成の怪物。一方は相撲経験なく中卒で入門した叩き上げの63春組。どちらもパワフルな相撲で上位を苦しめ、大関候補と言われながら、長らく停滞。平成12年に鬱憤を晴らす初優勝で立て続けに大関へ昇進した。武双山が引退する16年まで大関として凌ぎを削った。

 起点となったのは12年初場所。単独トップで千秋楽を迎えた武双山に対して、7−7の魁皇は弱気に駆られたか立合い中途半端な叩きに行って出足に吹っ飛ばされ、ライバルと言われた相手の初優勝を許した。惨めな負け越しとなった魁皇だが、これを糧に翌々場所初優勝を果たす。未完の大器がついに覚醒、共に優勝の翌場所大関昇進を決めた。

    13年には相星で楽日対決、投げの打ち合いを制した魁皇が勝ち残り、その後もう一人並んでいた貴乃花の敗戦で2度めの優勝が決まった。両者が優勝を争ったのはそれくらいだが、よく似た経歴を辿ったことで記憶に残る好敵手である。

千代大海(16-18)栃東

有名C拮抗A並立B因縁B

【大関対決】【逆転V】【同学年】【出世争い】

 

 同じ昭和51年生。高校中退の千代大海は昭和50年代生まれ関取第一号となるが、高校相撲で実績を残した栃東が瞬く間にに追い越していった。すぐにでも大関かという勢いだった栃東だが、故障で停滞。すると十両は2年かかった千代大海が幕内わずか9場所で初優勝、大関取りに成功する。

 それから3年後の14年1月、ようやく新大関となった栃東は、千代大海との激しい優勝争いの末、千秋楽直接対決で連勝し逆転優勝。その後互いに2度ずつ優勝を加えて優勝3回で並んだ両者。栃東は19年に引退、千代大海は大関在位最多記録を残して22年に引退した。

 突き押しで攻める千代大海、前傾姿勢を崩さず跳ね上げ、おっつけから中に入っての反撃を狙う栃東という展開が主。顔面に張り手をもらいながら奮闘する栃東が若干優勢だったが、対戦成績は拮抗。

 

魁皇(34-20)千代大海

有名B拮抗C並立A因縁B

【大関対決】【相星決戦】【好対照】【隣県】【タイ記録】【引導】

 4歳差だが、大関昇進は1年半千代大海が早く、10年近く大関で並び立っていた。どちらも九州出身で、場所前などよく稽古を積んだ仲。長らく大関候補と呼ばれ続けて果たせなかった魁皇を、あっさり追い抜いたのが新鋭千代大海。胸を出して受ける魁皇は、猛烈な突き押しの千代大海にとって格好の的。怪力を発揮する暇なく離れて勝負をつける場面が目立っていた。ところが、14年春を境に突然全く勝てなくなった。魁皇も充実していたが、千代大海も全盛期と言える時期であり、同じ地位に在りながら15連敗は解せない。優勝した場所も、綱取りの場所も、初日から13連勝した場所も敗れて痛かったが、15年7月には楽日相星決戦を戦い、熱戦の末敗れている。突き押しで攻め立てる千代大海の突き手をうまくハネあげて得意の左差しに入り、嫌がるところを押し出すような展開が多かった。その後共に故障がちとなり、4場所ぶりの対戦となった17年九州で、ようやく魁皇の連勝がストップ。揃ってロートル大関と化していった時期は、トントンの対戦成績だった。

    そしてついに千代大海が陥落し、一縷の望みをかけて臨んだ22年初場所3日目。魁皇に送り投げで叩きつけられ、現役最後の一番となったが、これで魁皇は千代大海の師匠千代の富士の幕内勝利数を追い越し、歴代1位となる記録的な勝利だった。

    39歳まで大関を張った魁皇、翌年7月には千代の富士の通算1045勝を更新。この場所はカド番ではなかったが、千代大海と同じ大関在位最多65場所で土俵を去った。

稀勢の里(26-17)栃煌山

有名D拮抗B並立C因縁C

【同学年】【引導】

 多くの名力士が誕生した昭和61年生の世代。栃煌山は早生まれで62年だが、同学年である。中学出て入門し、16年に18歳で幕内の稀勢の里に対して、栃煌山は高校相撲で実績を積んでから、急速に番付を駆け上がり、19年に20歳で入幕。上位に定着していた稀勢の里に対し、栃煌山はしばらく苦戦して番付を上下していて、当初はあまり対戦がなかったが、22年からは毎場所のように顔を合わすことになる。対戦成績は一進一退。関脇で栃煌山が二桁勝って先行しかけたこともあったが、23年は稀勢の里がカード4連勝をマークするなど力を伸ばし、大関となる。

 安定した大関だった稀勢の里に対し、三役と平幕上位を往復の栃煌山だが、この対戦に関しては意地を見せ、24年から27年にかけての4年間は9勝9敗と全くの五分。もろ差しの技能を磨いて大いに苦しめた。28年7月の綱取り場所でも突き落としを食って土をつけらたが、この1年は優勢に運び、横綱昇進を果たした。

 苦手を克服したかに見えたが、横綱昇進後は怪我で不振。栃煌山も三役から遠ざかり、一時幕内の座さえ危うかったが、なぜか稀勢の里の出場場所には上位に顔を出し、3勝1敗。31年1月3日目、あっさりともろ差しを許して3つ目の金星を許した一番が、日本人横綱最後の一番となる。最後が栃煌山で良かったとの本人の弁も。

 

豪栄道(23-14)栃煌山

有名C拮抗C並立B因縁C

【出世争い】【同学年】【同期】【同門】

 こちらも高校相撲出の同学年対決。全国大会で争った期待の大物同士、17年春、序ノ口最初の一番から対戦した。これは豪栄道が勝ったが、全日本4強の実績を誇る豪栄道を抑えて新十両や新入幕は栃煌山が先行。追い上げる豪栄道は新入幕で快進撃、横綱に挑戦し一気に挽回。その後は共に長く三役で頭打ち。23年には栃煌山が決定戦に進出するも、どちらも三役では二桁が続かず、一進一退の大関レースだったが、26年についに豪栄道が昇進。28年には全勝優勝も果たす。栃煌山はやや後退し、大関の座が遠くなっていった。

 両者の対戦成績も連勝連敗を繰り返して一進一退だったが、大関に昇進してからは豪栄道が圧倒している。栃煌山が勝つときはほぼ正攻法で前に出ての完勝だが、豪栄道は苦し紛れの引き技や両差しを許しての首投げ逆転が多々あった。これで千秋楽にカド番を脱出したり、全勝をキープしたり。

栃乃和歌(7-6)両国

有名C拮抗B並立B因縁D

【同学年】【同期】【同門】【弟子対決】

 豪栄道と栃煌山の師匠もかつてライバルと呼ばれた三役力士だった。大卒幕下付出で学生時代からのライバル。春日野と出羽海の同門で、稽古する機会も多かった。実績では長く土俵を務めた栃乃和歌に分が上がるが、両国も千代の富士に3度勝つなど上位を苦しめ、伝統ある四股名に恥じない活躍はあった。対戦は意外に少なく、最後に3連勝した栃乃和歌が勝ち越し。

 引退後、両国は独立し境川(独立時は中立)部屋を一代で強豪に押し上げた。大関豪栄道のほか、妙義龍、岩木山、豊響ら個性派を生んだ。二代目佐田の海も、父のいた出羽海部屋ではなく弟弟子にあたる両国の部屋に入門し、親子で新入幕三賞という快挙を成し遂げた。栃乃和歌も、栃木山、栃錦、栃ノ海と引き継がれた名門の四代目となり、やや低迷していた部屋を大関栃ノ心、栃煌山、碧山、栃乃若らを擁する強豪に復活させた。師匠としても出羽海一門を引っ張る2枚看板として、優勝1大関1。ライバル関係は続いている。

出島(24-16)栃乃洋

有名C拮抗C並立C因縁D

【同学年】【同期】【同門】【ベテラン対決】

 遠藤を擁するなど相撲どころ石川県が誇る、平成の二大名力士。アマチュア時代からライバル関係にあり、共に大学を出て幕下付出デビュー。相争って幕内上位に進出。一気の出足の速攻出島と、郷土の横綱輪島のような左下手投げを武器に腰の重い栃乃洋。平成10年頃に台頭し、上位陣を崩す。出島は三役に定着し、11年秋には優勝して大関へ。栃乃洋は三役に定着できず差をつけられたが、金星は積み重ねる。出島に合口が悪く11連敗を喫していたが、これがストップしたのは不戦勝。この休場で出島は大関を陥落した。両者とも全盛期を過ぎて、その後は平幕同士での対戦がほとんどとなるが、どちらも長く取った。出島有利が続いたこのカードだが、最後は栃乃洋が巻き返し、最後の21年名古屋も幕内残留に向け手痛い7敗目を与え、3日後に出島は引退を発表した。

若の里(24-15)旭天鵬

有名B拮抗C並立C因縁D

【同期】【ベテラン対決】【引退同時】 

 全盛期はほとんど争わず、ライバルなどと呼ばれたこともないのに、初めと終わりだけ一緒で俄かに比較して語られた両関脇。平成4年春初土俵、平成27年秋引退。旭天鵬40歳、若の里39歳と息の長い活躍だった。

 実力的には若の里が上回り、平成14年から17年にかけて三役連続在位(大関以上除く)が史上最長を記録。2度のチャンスを逃しているが、上位陣にも互角に取っていて、大関になってもおかしくない力を誇ったが、30歳を過ぎて足腰の故障が慢性化、苦しみながら長く取っていた。対して旭天鵬はたまに三役に上がるものの主には平幕暮らし。上位陣にも分が悪かった。ただ、息の長さは驚異的で、三役から遠ざかってはいても、一向に衰えを見せない。平成24年には37歳にして奇跡的な初優勝を記録。その後も元気に幕内で活躍、ついにその座を明け渡すこととなって、十両でも取ればと言われながら惜しまれつつ引退。十両暮らしが長くなった若の里も陥落が決定的となり同場所後引退。引退相撲も1日違いだった。

琴奨菊(27-13)豊ノ島

有名C拮抗C並立B因縁B

【同期】【同学年】【V争い】

 琴奨菊が明徳義塾へ相撲留学したことから、高知県内で中学時代から争うライバルとなった。共に高卒でプロ入り後も同じようなペースで出世、幕内上位で存在感を発揮した。技能的な相撲で大物を食うのは豊ノ島の方が印象深いが、がぶりを武器に三役定着したのは琴奨菊で、23年にはついに大関昇進。

 ハイライトは28年初場所、琴奨菊が初優勝を果たすが、3横綱を連破して賜杯へまっしぐらの大関に土をつけたのがこの豊ノ島。自身も1差で追い上げて千秋楽まで優勝を縺れさせ、殊勲賞を獲得した。32歳と全盛を過ぎた時期に劇的な舞台が待っていたが、琴奨菊は1年後大関陥落、豊ノ島は怪我で幕下まで陥落してしまった。だが、1年以上に及ぶ幕下生活を強いられても諦めず、再戦を目指して幕内まで復活。琴奨菊も番付を下げつつあったが、惜しくも対戦が組まれることなく力尽きた。