大関の引き際

 横綱とともに協会の看板たる大関は、追い詰められる前に身を引くのが理想とされてきた。将棋と同じく「詰み」まで粘るのは見苦しく、大関を守れないと判断した時点で、否、大関らしい相撲が取れないと自覚した時点で、自ら身を引くのが理想とされてきた。

 

 もちろん、横綱と異なり2場所連続で負け越した時点で降格とされているので、一時的な怪我や不調で年齢的にもまだまだという力士は陥落しても挑戦を続けた。三重ノ海は陥落後に横綱昇進を果たしているが、長らくこれが唯一の例。実際には大関復帰もごく稀だった。

 大関陥落が2場所連続負け越しに改められてからの30年間で、陥落直後の10勝特例で1場所復帰は三重ノ海だけ。そのほか一から大関に再挑戦した魁傑が復帰した2例だけだった。もちろん、貴ノ花や朝潮、北天佑など在位中に引退する例が多かったこともあるが、まだ若かった前の山や大受、初の角番で陥落した琴風など可能性のありそうな力士でさえ復帰は叶わなかった。

 

 平成4年九州に陥落した霧島は現役を続けたが、昭和50〜60年代に陥落後も現役を続行したのは魁傑(2回)、三重ノ海、琴風の3人だけと珍しく、年齢的にも意外な選択と映った。翌年陥落の小錦も満身創痍ながら現役続行を選び、それぞれ4年ほど平幕で健闘した。その後しばらくは陥落例がなかったが、12年に貴ノ浪が1場所復帰を果たすと、同年に昇進即陥落した武双山も復帰を果たした。久々の成功例を見たからか、以降の大関はことごとく現役続行を選ぶ。解雇の琴光喜を除くと、小脳梗塞が見つかった栃東、最終場所で通算最多勝利を更新した魁皇、角番で負け越して千秋楽まで取った豪栄道の3人だけが大関在位中の引退である。

 その間、雅山が謹慎休場で転落して大受以来の十両での土俵となり、1場所で復帰。大受が勝てないまま引退したので、元大関で初めての十両勝利となった。その後把瑠都が休場続きで転落したが出場せず引退。再び転落した雅山は、初めて皆勤負け越しを記録、ついには幕下転落が確実になったが最後まで取って引退した。これが完全に前例となり、琴奨菊、栃ノ心も十両の土俵に上がっているが、思うように星が上がらず引退している。

 

 令和を支える横綱照ノ富士の復活劇は、かつてなら夢物語だった。もちろん応援の声のみならず、大関が黒廻しに丁髷で土俵に上がる光景に眉を潜める向きもあった。それを乗り越え、序二段から出直しての再入幕優勝、そして魁傑以来の特例外での大関復帰、最短での横綱昇進。それなら自分も、と思える超ポジティブな力士はなかなかいないだろうが、夢物語の実現は、さらに陥落後の現役続行を後押しするだろう。

引退時の地位

地位 平成・令和 昭和

合計

大関

(非角番)

5 28%

朝潮、北天佑、

栃東*、

琴光喜、魁皇

 

7 29%

琴ヶ濱※

北葉山※、豊山※

大麒麟、旭國

貴ノ花、増位山Ⅱ

12

 

29%

大関

(角番)

1 5%

武双山*

2 8%

清國、若嶋津

3

7%

大関

(陥落決定)

1 5%

豪栄道

 

4 17%

鏡岩、汐ノ海*

増位山Ⅰ、栃光

5

12%

関脇

3 17%

千代大海、琴欧洲

貴景勝

1 4%

五ツ嶋

 

4

10%

平幕

1 5%

貴ノ浪

 

5 21%

名寄岩、若羽黒

前の山、魁傑、

琴風

6

14%

平幕

(陥落決定)

3 17%

霧島、小錦、出島

 

4 17%

佐賀ノ花、三根山

大内山、松登

7

17%

十両

2 11%

琴奨菊、栃ノ心

1 4%

大受

3

7%

十両

(陥落決定)

2 11%

雅山、把瑠都

0

 

2

4.7%

合計

18

24 

42

※は3場所連続で陥落の時代に2場所連続負け越しのため非角番。

*は大関陥落後復帰して、最終地位が大関。

引退時の地位別の人数、割合は、大関20人(48%)、関脇4人(10%)、小結0人、平幕13人(31%)、十両5人(12%)。割合にすると、昭和期と平成・令和期で様相が大きく異なる。

 

 平成以降、大関在位中に引退したのは7人。但し、武双山は1回、栃東2回の在位中陥落があり、一度も陥落することなく引退したのは5人だけだ。

 陥落後も現役を続けて関脇以下で引退したのは10人。復活した6例(貴ノ浪、武双山、栃東2、栃ノ心、貴景勝)、現役の大関経験者5人(髙安、朝乃山、御嶽海、正代、霧島)を加えると、陥落は21例。陥落が決まった中で、番付上大関のまま引退したのは豪栄道1人なので、22例中21例は大関陥落後も現役を続行している。

 大関の陥落が決まりかけると毎回引退が取り沙汰されるが、もはや引退する方が例外的と考えていいだろう。

 

 昭和期には、鏡岩以降の24人中、13人が在位中に引退(汐ノ海のみ一時陥落)。そのうち7人は角番でもない(琴ヶ濱、北葉山、豊山は連続負け越しで翌場所の角番が決定)が、限界を察して身を引いている。二代目増位山などは、在位も短く成績も奮わず、ようやく初めて10勝した翌場所に引退というように、「追い込まれての引退は恥」という武士道的な美学が存在していた。

 陥落後も現役を続け、関脇以下で引退したのは11人。復活は3例あって、陥落は計14件。陥落が決まって引退したのは4人で、18件中14件が現役続行。現役を続けるのは、在位数が短くまだ若い大関がほとんどで、最長は琴風の22場所、年齢はまだ28歳だった。

 

 平成以降では、史上最多在位の千代大海、4位の琴欧洲、6位(当時3位)小錦、7位(当時4位)貴ノ浪と長年看板を張った大関も現役を続けているのが大きな違い。そのため、角番の場所を5勝10敗で終えた豪栄道(10位)の引退は、潔さをもって受け止められた。しかし昭和期であれば、33場所も大関を務めた実力者たるもの、陥落が決まるまでに決断すべし、と批判されていたかもしれない。