番付予想の精度を高めるためには、一定の運用ルールをつかむことが重要だ。実例をもとに傾向と対策を伝授する参考書を目指す。”番付予想偏差値10Pアップ”をお約束できるものにしたい。
まずは各場所予想番付のページにて取り上げた「予想のポイント」で取り上げたものから放り込み、並行して基本となる事項や過去の”重要判例”も追加し、項目が増えてきたら体系的に整理していきたい。
1.定数に関すること
(1)小結の定数
(2)三役の定数
2.昇進に関すること
(1)関脇の昇進基準
(2)大関の昇進基準
(3)横綱の昇進基準
3.東西・張出に関すること
(1)横綱・大関
(2)単独張出の東西
(3)関脇の東西
(4)幕尻の東西
4.昇降に関すること
(1)三役から陥落
(2)平均的な昇降幅(平幕大負け)
(3)入幕力士
(4)コロナ特例
(5)その他イレギュラー
レベル2、ブレ2
近年、関脇、小結の定数各2名が厳格化している。東西両関脇が勝ち越した場所で大関から陥落してきたり、小結や平幕上位でかなり大勝ちをした力士がいる場合を除いては、関脇や小結を3人以上にしない運用が続いている。
関脇の定数についての運用は、「昇進に関すること」の中で「関脇の昇進基準」という項を作って触れようと思うので、ここでは主に小結の定数について述べる。
小結3人以上は、今世紀に1場所だけ
最近の運用では、小結が定数を超えて3人以上になることはほぼない。関脇は上記のケースで3名になることがたまにあるが、小結が定数を超えたのは、18年11月が最後(平成30年1月現在)。その前6年間も小結は2名で固定されていた。
例外となった18年11月は、筆頭で10勝の露鵬と3枚目で11勝の安美錦が、三役力士は全員勝越して三役の枠は空きがなかったものの、さすがにこの成績で平幕据え置きは気の毒と思ったのか、珍しく枠を拡げて4小結となった。
平成初期までは、筆頭や2枚目で9勝すれば張出を作ってでも昇進させており、8勝でも枠を拡げて上げることもあった(昭和30年代には3、4枚目で9勝の力士のために小結に張出を作ったこともあった)が、二桁勝っていない力士のために3人目の小結を置くのは11年3月の魁皇が最後。
今世紀に入ったあたりから定数厳守が優先され、西筆頭9勝栃ノ心、2枚目10勝琴奨菊、3枚目10勝出島と厳しい見送りもあった。栃ノ心は長期休場を乗り越えて幕下下位からの、元大関出島は4年ぶりの三役復活を期待されたが、苦労人にも容赦なし。29年11月に3枚目で11勝の北勝富士も筆頭どまりで、これは11勝した平幕力士が三役昇進を見送られた最高位となる。前述の例外にあたる安美錦の昇進の例は維持されなかったわけで、さらに定数が厳格化されている(この場所は横綱の引退、3関脇の解消もあって役力士の枠を維持しようという動きがあるかと予想したが、全くなかった)。
中位で12勝した力士にもつれなく、最上位では5枚目黒海、そして7枚目旭天鵬は、昭和36年の佐田の山以来となる優勝後の平幕据え置き。8枚目で優勝の朝乃山も当然のように上がれなかった。
上がり優先の時代 ー関脇7−8で平幕陥落も
平成初期は元気な若手が多く、平幕上位で好成績者が続出。張出を設けていても、関脇の7勝8敗でも平幕に落とされるのが珍しくないほどだった。この運用は平成5年1月の安芸ノ島以来なくなり(むしろ大した昇進候補がいなければ連続在位中の豪栄道のように西に回って陥落を免れることもあった。)、平成11年11月には平幕上位で大勝ちした2人と関脇で7勝の土佐ノ海は3小結として共存しているが、以降3小結は、12年3月に幕尻優勝貴闘力を翌場所3人目の小結に据えて以来途絶えた。
平成29年5月は3関脇2小結だったが、高安が大関に昇進し小結〜平幕上位に大勝ちの力士はいないので、2関脇2小結に戻るのは間違いないが、もし髙安が大関に昇進していなければ、琴奨菊(関脇7-8)は小結3人目として残れたかどうかは気になるところだ。というのも、小結が2名の定員を超えたのは今世紀に入って2回だけ(当時)。かといって関脇で7勝の力士が平幕に落とす運用も四半世紀近くしていない。どちらが優先するのか気になるところだった。
増枠は限定的に
令和に入って横綱大関が枯渇した時期は自然と上位の勝ち越し力士が増えて、関脇小結の定数がようやく緩和された。けれどもそれも一時的で、平時は2人ずつに戻す方針は変わらなさそうだ。
現在の編成に、平成18年11月や令和元年11月の4小結化が例外ではなく前例として生きているなら、小結の定数増は絶対不可でない。昇進例からみるに、筆頭9勝、3枚目以内11勝はOKで、筆頭9勝や2枚目10勝はダメという厳しい条件だ。その他、関脇・小結が埋まっている状態での7-8関脇の扱いや、旭天鵬以上に好成績で平幕優勝した中位力士の扱いは、定数枠が厳格化されて以降事例がなく、目安も不明。
ただ、あくまでこうした前例は参考程度なのが番付編成。急に変わることもある。数字だけでなく相撲ぶりから三役力士として務まるかを判断するために、審判部が編成しているのだ。
レベル2、ブレ2
三役の定数が増える場合 ー安定性の問題
先に小結の定数を取り上げた。しかし、三役の枠が広がるのは、小結の定数を増やす時ばかりではない。平幕からいきなり関脇3番手に上げるかもしれないし、小結で勝ち越した力士を関脇3番手、4番手にして、平幕から補充するケースもありうる。大関昇進者が出て、関脇小結の数に変動ない場合も三役の枠は広がることになる。
役力士が増えればめでたいが、番付の編成上はややこしいことになる。平時の番付制度では、勝越して上がる、負け越して下がるは絶対だが(据え置きはありうる。)、その基準となるのは、相対的な順位ではなくあくまで番付の絶対値。例えば役力士が前の場所より2人増えれば、前頭筆頭は前場所の2枚目の位置づけになる。東2枚目で勝越した力士が西筆頭になれば、番付は上がったことになるが、相対的には下がっていることになる。
また、幕内の定員が固定なので、役力士が増えると前頭の合計枚数は減る。幕内最下位が西17枚目だったのが翌場所は西16枚目になったりする。こうなると、西16枚目で7勝8敗だった力士は幕尻に残れる星だが、翌場所17枚目はないので十両に落ちるべき力士になる。役力士が2人増えるだけなら、番付据置きという手が使えるが、もし3人以上増えると西16枚目もなくなり陥落必至。昇進候補がいれば不運で済むが、落とさなくてもよい力士を落として、空き枠に無理やり昇進力士を作ることになりかねない。なので、急激な役力士増加には審判部も慎重になるのだろう。一番安定性を保てるのは、各地位の枠を厳守することだ。
どちらの運用が公平か
そういう意味では、関脇小結の総枠がほぼ固定されている今の運用は公平である。毎場所張出を作ったり無くしたりで総枠が流動的だった昭和年代でも、筆頭で勝ち越しながらの見送りはあった。全体の数は少ないが、旭国や蔵間は2度も経験している。昇進のチャンスが多いのは良いが、枠を拡げてもらえるという期待感がある分、上がれない時の不公平感は今よりも強かったかもしれない。審判部のさじ加減で決まるのだから。
一方で、現在の厳格な枠の運用であっても、枠が埋まっていなければ甘い昇進はあり得る。むしろ関脇小結が常に4名しかいない分、定数に遊びがないので、負け越した力士の数だけ枠が空く。役力士が少ないので平幕上位は横綱大関総当たりで勝ち越しは難しく、上位戦のない5枚目あたりから無理に上げてくるしかない。こうなると、平幕上位で6~9番を続ける地力のある力士が厳しい見送りを食っているうちに上位戦で疲弊して三役になれずに終わり、上位に全く通じない力士が運に恵まれ生涯一度の思い出三役、といったことになりやすい。最高位と実力がリンクしにくくなる。多くの幕内力士がキャリアハイを迎える平幕上位から三役の間。元関脇、元小結、元幕内、その差は引退後のキャリアも少なからず影響する。できるだけ成績に見合った処遇をする方が納得感は高まるだろう。
振り返ると、昭和末期から平成初期までの運用は合理的だ。一応定数は守ろうとはするが、平幕上位の勝ち越しは、張出を作ったり、7勝の関脇を平幕に落としてでも、積極的に上げる。事実、昭和56年の蔵間以降平成8年の土佐ノ海まで、前頭筆頭で勝ち越して三役に上がれなかった力士はいない。
三役の常連力士ならともかく、多くの幕内力士にとっては三役は土俵人生のピークに当たり、引退後もついて回る最高位というステータスに響く。不運によって元小結や元関脇を名乗れない力士を少なくするために、平幕上位の力士には、上がるべき時に上げてやる配慮がほしい。事実、昭和56年の蔵間以降平成8年の土佐ノ海まで、前頭筆頭で勝ち越して三役に上がれなかった力士はいない。
<予想のポイント>
予想の観点でポイントを整理すると、例外的なケースを除いて関脇小結は2名ずつにしようとするので、一度定数を超えても変動のタイミングで戻す。埋まっている状態では、それぞれの例外的な昇進基準をクリアしない限り定数は増やさない。厳格運用されることを前提に考えるべきだ。
昇進基準については、「昇進に関すること」で整理する。
レベル2ブレ2 ※H29-7
①空きがなくても昇進できる成績
関脇は、横綱、大関に次ぐ地位ながら昇進基準はない。必ず2人以上置くことになっているため、空席ならどうにかして埋めないといけない。必ずしも小結である必要もなく、平幕8勝で新三役が関脇というケースもある。なので昇進基準を議論しようがないとも言えるが、ここで取り上げたいのは、例外的な編成が行われたケース。①関脇2人がいるのに3人目を作って昇進させたケースからは、どうしても昇進させるべきと考えられている成績が、②関脇で1点負け越しながら残留したケースでは、本来関脇昇進に相当しないと判断させる成績が割り出せるはずだ。また、関脇が完全に空いてしまった場合に③昇進できる番付の下限はあるのかについても考察したい。
①−1小結で11勝なら必ず昇進
過去の例を洗い出すと、小結で10勝しながら留め置かれたケースは相当数ある。関脇が詰まっていたら無理には上げない成績と見られているらしい。ただ、小結で11勝以上して関脇に上がれなかった例はなく、関脇が詰まっていても張出を作ってでも昇進させている。関脇小結の定員に厳しい近年でも数例ある(鶴竜、栃煌山)。この1勝の違いが如実に現れたのが平成2年初場所で、前場所小結で11勝の水戸泉は張出関脇に、10勝の霧島は小結のままだった。霧島は腐らずに翌場所は11勝で関脇に上がり、その翌場所は大関となった。
①−2 小結で連続10勝も昇進?
こちらは断定できないが、小結で連続10勝なら張出を作ってでも関脇にするのではないかという「説」だ。そもそも連続で10勝5敗が他に安馬のみ(空きが出来て西関脇に昇進)だが、昭和60年の北尾は、関脇の保志、大乃国が勝ち越したため10勝しながら据え置きを食ったが、翌場所も両関脇が勝ち越して北尾も同じく10勝だったが、今度は関脇に昇進した。ちなみに1場所目は小結を埋める候補が不足していたことはあるが、西9で11勝の出羽の花を小結に上げており、東10で同じく11勝の水戸泉も上げていても変ではない。2場所目は西3枚目で8勝の小錦を上げているので、こちらも無理に小結にしなくてよい星だから、今度はあえて北尾を関脇にしているのである。さすがに2場所続けて二桁勝って据え置きは気の毒と考えたのか、それとも翌場所さらに大勝ちするようだと、関脇を飛ばしての大関昇進になる可能性を考えたのか。
余談ながら、小結で連続10勝といえば武蔵山がいる。11日制、隔場所番付編成の時代であり、こちらは10勝1敗なので優勝もしているが、めぐり合わせでその翌場所も小結で出場。関脇を飛ばして大関昇進を果たしている。
①−3 平幕からは空きがなければ無理?
→筆頭11勝でも微妙。平幕上位の優勝者なら?
では、平幕力士にも関脇昇進相当と考えられている成績はあるのだろうか。平幕力士が張出関脇に昇進した(つまり枠を広げてでも昇進させた)のは、平成以降では2枚目以内で11〜13勝の4例があるのみ。9年名古屋で11勝した貴闘力が最後だ。昭和に遡っても、恒常的に関脇・小結が3人以上いた昭和30年代を除くと意外に少ない(両関脇が埋まっているケースが少ないこともあるが)。3関脇は例外扱いの近年では、平幕力士に関脇昇進当確の成績はないのかもしれない。
一方で筆頭水戸泉、4枚目若三杉、高見山と平幕優勝者の名前が挙がっており、上位での平幕優勝は張出を作っても関脇に昇進すべきと考えられていたようだ。近々平幕上位で優勝する力士が出た時に関脇が埋まっていれば、どういう結果になるのか気になるが...
令和3年初場所を制した西筆頭の大栄翔だが、2関脇2小結が総勝ち越しで、さすがに三役枠を広げて昇進となったのだが、上がった先は西の「2番目の小結」。関脇じゃないのか!と誰もが突っ込んだ。
また、平成30年初場所では、関脇の空きが1つに対して、西小結が8勝、前場所東西の筆頭が11勝、と候補が乱立したが、東筆頭が関脇を射止めた。大勝ちすれば小結を逆転できるが、枠を増やすほどの材料にはならないようだ。
② 負け越した関脇との比較
→ブレはあるが、2枚目8勝はボーダー
かなり珍しい例だが、最近では豪栄道が史上最長の連続関脇在位記録を作った際、2場所は勝ち越せなかったのに残留している。負け越した関脇を残留させてまで上げたくなかった成績とはどんなものだったのか。同場所の「最右翼」だった力士の成績を調べた。
直近の平成25年夏は、関脇以下役力士が全滅。筆頭11番の妙義龍が関脇昇進はいいとして、その他の平幕上位も4枚目まで全て負け越し。東西5枚目の8勝、西6の9勝、東8の10勝までが候補となった。結果、東5の松鳳山と東8の時天空が三役昇進となった。惜しくも西6の豪風、西5の高安は筆頭止まり。この4人の並びが妥当かはともかく、この4名の成績は小結まではあっても関脇には不十分。関脇で7番の豪栄道が残留となる。
もうひとつ前の24年名古屋では、小結で勝越しの妙義龍が関脇に。2枚目8勝と4枚目9勝、7枚目10勝、8枚目11勝あたりが次候補となるが、結果は東2碧山と東4栃ノ心が小結へ。関脇には届かないとの判断だった。
次は9年九州に遡る。やはり関脇以下が全滅。昇進候補は西3と東4の8勝がいたが、東6で11勝の武双山が一気に東関脇へ。東関脇で7勝だった栃東が西に回り、上記の2人は小結となった。昭和50年代にも2例あるが、いずれも三役昇進候補が枯渇した状況で、4,5枚目の8番や中位の10勝程度を関脇にするよりは、という判断で7勝の関脇を据え置いたものだった。滅多にない例だが、運用としては生きている。
一番惜しいのは碧山だが、東2で8勝が常に東関脇の7勝に劣るわけではない。昭和40年代には、7勝の貴ノ花を小結に落とし、西2で8勝の長谷川が関脇に昇進している。2枚目8勝は判断が分かれるところらしい。なお、筆頭で勝越した力士を抑えて負け越した関脇が残った例はない。
このように、平幕上位でも8勝程度では関脇に上げたくないようで、中位の大勝ちもできれば上げたくなさそうだ。小結とは違うんです!ということか。
③ 関脇に昇進できる番付の下限
③−1 大勝ちの場合
→下限なし。幕尻からでも可能性あり
昭和以降では14勝した清國の東13枚目が、翌場所関脇に昇進した下限。これに次ぐのが東10枚目で13勝逸ノ城、西9枚目で13勝琴光喜と平成の記録が続く。昭和39年初場所は関脇から平幕上位、中位までが負け越しばかりで、前頭8枚目以上の勝ち越しは4枚目8勝明武谷、7枚目9勝廣川だけ。清國が飛び越した。また、10枚目で13勝した北の冨士もこの時代なら張出関脇でおかしくなかったが、三役昇進候補が少なすぎ、廣川を上げるのも...となって小結で留められた感がある。この場所の幕尻は東15枚目だが、もし清國が幕尻でも関脇になっていただろう。よって関脇に上がるための番付に下限というのはなかったと考えられる。
逸ノ城はそれ以来の前頭二桁から関脇に上がったレアケースだが、西関脇7勝8敗の豪風を残したり、5枚目10勝の勢を上にしようとはしなかったことから、やはり何枚目以下からの特進は許さないというのはなさそう。
③ー2 大勝ち以外の場合
→実例では、8勝では西4、9勝では東6まで
8勝で関脇に昇進した一番下の番付は、62年秋で西4枚目だった逆鉾。ところがこの時、一枚下の西5で同部屋の陣岳が9勝している。普通なら陣岳が追い抜いて上位に行くところだが、追い越さずに小結に留まった。ちなみに9勝で関脇昇進の下限は、27年初場所東6の隠岐の海。この場所も関脇・小結・平幕上位壊滅状態で、他に手立てはなかった(6勝の関脇、7勝の小結は適当な昇進者がいなくても落とすという前例になりうる。これは9勝で関脇に上がった番付の下限を半世紀ぶりに更新する珍現象だった。)
なので、陣岳の成績は当時の9勝昇進の下限ではあったものの、他に候補がいなければ昇進していただろう。おそらく、2大関と対戦し2敗の陣岳と、3横綱4大関総当たりで千代の富士を破って殊勲賞の逆鉾とでは、単純に勝ち星と番付の関係だけで判断できないとなったのだろう。勝星は弱くても番付上位が優先される例は、幕内や十両昇進争いでも見られる現象だ。陣岳の見送りは、特に昇進できる番付の下限だったというわけではなさそうだ。
①横綱・大関の並び
レベル1ブレ1
成績順、優勝すれば相星でも東正位に
昇進力士を除く横綱、大関の並びは、前場所の成績順で揺るがないが、平成13年春場所の番付から決定戦の結果が反映されるようになった。それまでは決定戦はあくまで番外という考え方で、相星扱い。前場所の番付順が維持されていたが、平成9年夏の決定戦で勝った曙が翌場所も西のままだったことに今更ながら違和感を唱える声が出て、以降は必ず優勝した横綱が東の正位を務めることとなった。大関でも14年初場所の決定戦を制した新大関栃東が、同点の千代大海を抑えて東正位となった。
②昇進力士の位置
レベル1ブレ1 ※H29ー7
昇進力士は必ず最下位に
横綱や大関が誕生した場合、その力士はどの位置に据えられるのだろうか。
結論から言うと、近年は無条件に最下位に置かれている。近年の横綱昇進時を例に出してみよう。共に全勝優勝で1人横綱時代を打破した白鵬、日馬富士は、どちらも西横綱からスタート。14勝の優勝で昇進した新横綱鶴竜は、12勝の白鵬、日馬富士に続く東の2番目に。同じく14勝の優勝で昇進した新横綱稀勢の里は、中盤戦で途中休場した鶴竜と日馬富士よりも後の西2番目。
ケース・バイ・ケース➱平成中期から変更
昇進力士は最下位という運用は、ずっとそうだったわけではない。平成11年名古屋で第4の横綱となった武蔵丸は、全休貴乃花、途中休場若乃花よりは上に出て、皆勤11勝の曙に続く西の正横綱。12勝で何とか昇進の10年名古屋の若乃花は、10勝どまりの2横綱に東西の正位を譲って東2番目。連続全勝で昇進した貴乃花は、10勝の曙を押しのけていきなり東正位に座った。14勝で連覇した旭富士は、全休大乃国と10勝北勝海より上で、12勝の千代の富士に次ぐ西正横綱だ。勝越していない横綱よりは上位に来ることになっていて、10勝だと星の差により変わっている。ケースバイケース。
傾向が代わったのは、15年3月朝青龍の昇進時。東横綱武蔵丸は全休していたが、引退した貴乃花に変わって西横綱となった。以降の昇進力士はすべて最下位に置く運用だ。
大関も同じで、優勝して上がった照ノ富士でもカド番琴奨菊より下位。14勝で昇進した把瑠都も最下位だった。新大関が最下位でなかったのは、12年に魁皇が、負け越しの雅山より上位の東2番目となったのが最後。14年1月に昇進した栃東は、公傷全休の千代大海より下位の西2番目。そして、この場所は意外な配置となった2大関が決定戦を戦った。それで縁起を担いだわけでもないだろうが、以降の新大関はすべて一番下位となっている。
予想のポイント
運用変更の理由はわからないが、平成14年以降例外なく運用されており、新横綱・新大関は既存の横綱・大関の成績に関わらず一番下に置かれると予想してよいだろう。
レベル1ブレ2
基本的に東→西→東の順
①関脇同士の入替え
レベル2ブレ3
東西入替え どっちやねん
②昇進力士との比較
レベル2ブレ2
昇進力士の方が上位もあり
横綱、大関では、平成14年以降新参者はかならず最下位に置かれていると解説したが、関脇や小結はそうではない。東関脇が空いた場合に、西関脇が勝ち越していても、小結や平幕から好成績で昇進した力士が東関脇となる場合も多々ある。絶対そうかというとそうでもない。令和6年名古屋は、前場所を制した小結12勝大の里と関脇10勝の西関脇阿炎との比較になり、空いた東関脇に入ったのは阿炎。ここの入れ替えは勝越数の差の大小も影響するが、何勝差なら逆転なのかは判然としない。差だけでなく、関脇の星数も影響するのかもしれない。
ただし、空き席を譲ることはあっても、昇進者に地位を譲って序列が下がることは近年ない。かつては東関脇で9勝の大受が小結で優勝した魁傑に押されて張出に回ったりと成績優先だったが、勝ち越している力士の序列を下げるのには抵抗が出てきたのだろうか。平成23年には東関脇10勝琴奨菊、西関脇8勝稀勢の里に加えて12勝の小結鶴竜が3人目に加わったが、両関脇が正位を守った。4勝差ですらひっくり返らず。26年にも、11勝の小結栃煌山が8勝の両関脇の後ろについている。
(R6.7追記)
①小結同士の入替え
レベル1ブレ1
小結は長らく入替え事例なし
最後に勝ち越して序列が下がったのは平成11年春場所。東小結で8勝の出島が、西小結で9勝の栃東と入替え。平幕から2人昇進して4小結となったが、この2人よりは上だった。それ以前はその運用は普通で、昭和47年初場所の高見山などは、平幕上位から11勝して上がって来た2人に押しのけられて、東小結から張出小結になっている。
しかし、そもそも2人の小結で揃って勝ち越して据え置きを食らうこと自体が珍しい。平成11年春以降に、小結内で序列が低い方が大きく勝ち越した例は数あるが、いずれも関脇に昇進しているのでシチュエーションに当てはまらない。
②昇進力士との比較
レベル2ブレ2
昇進力士の方が上位もあり
前述の高見山のように昇進力士に押しのけられる運用は、その後見当たらない。これは関脇と同様だ。東小結8勝と筆頭10勝という例は幾度かあったが、遵守されている。この運用で違和感を覚えたのが令和3年春。前場所筆頭で13勝して優勝の大栄翔。関脇小結全員が勝ち越しており、まさかの「張出」小結扱い。東西小結ともに9勝していたが星の差4つ。序列を下げない運用を徹底した結果こうなった。そもそもなぜ「張出」関脇にしなかったかも謎だが。
そのケースは意地でもブレないのだが、序列上位が空いている場合は混沌としている。端的なのが令和4年九州の霧馬山だ。3人目の小結で9勝。東西の小結正位は負け越して陥落したが、前頭3枚目で13勝・優勝の玉鷲に東正位を譲り西小結となった。そして3人目として東筆頭10勝の翔猿。さらに4人目に関脇7勝で落ちてきた大栄翔。優勝力士には劣るが東筆頭10勝よりは上という変な立ち位置になった。さじ加減としか言いようがないか。(R6.7)
①前頭最下位が1人の時
レベル1ブレ1
幕尻は必ず東
平幕は、前頭各枚に東西2名ずつだが、幕尻は定員の関係で1名のみになることがある。慣例的にこの場合は必ず東。役力士が東に偏っていたとしても、バランスを取って西だけが存在することはない。かつて存在した平幕の張出(公傷の場合に運用)は西に置かれる場合があったが、これは3人目だから。東西に置くのが前提、1人目は東から。これは三役も前頭も同じ大原則である。
①関脇0勝
かつてはやや優遇も、現在は前頭二桁落ち覚悟
29年九州場所で大関復帰を狙った関脇照ノ富士だが、一つも勝てずに休場。このように故障で陥落した元大関が全休するのは琴風、雅山の例があるが、関脇で一つも勝ち星を挙げなかった場合、当然大きく番付は下がるにしても、役力士として若干の緩和はされるのだろうか。
直近では、隠岐の海や妙義龍が関脇で全休し、10、11枚目まで転落。三役も普通の枚数として数えるならば、10枚以上の下落であり、あまり容赦はない。平成10年代には3例あるが、いずれも前頭一桁で留まった。6枚目というのも2例あり、当時はやや優遇されている様子だ。
戦後すぐの頃は、平幕上位に留まるのはザラで、千代の山などは前頭筆頭である。事例は多くないが、徐々に落ち幅が大きくなり、琴風が戦後初めて一気に前頭二桁まで落とされた(3連敗で引退)。公傷制度もなくなった現在、元大関や、三役に定着していた大関候補が、たった2場所休んで十両落ちすることもあり得る。結果が全ての世界とは言え、せめて翌場所は大負けしても陥落しない位置くらいに置いてやる配慮があってもいいと思う。
②小結で大負け
やや優遇あり、平幕同成績よりも落ちにくい
役力士が負越して転落する場合、どの程度落とされるのか。一般的に勝ち越し負け越し数が昇降する番付数と一致するのが目安と言われるが、小結は前頭0枚目と考えて編成しているのか。
小結で4勝の場合、意外にも翌場所の番付はブレが少ない。かなり遡っても、ほぼ4、5枚目前後に収斂されている。上記の公式に照らせば負越7なので7枚目に落とされても仕方ないが、そこまで落ちたのは平成2年の琴ヶ梅まで遡り、過去数例だけ。8枚目以下への転落例はない。一方で3枚しか落ちなかったケースは少なくなく、やはり小結は単なる前頭0枚目ではないことを物語る。平幕の4勝でも周囲の状況によって4枚降下程度で済むことも割とあるが、やはり6、7枚落ちることが普通である。
小結で5勝の場合はどうか。これもやはり平幕で5勝の場合よりも降下幅は小さい。2枚目に置かれたケースも平成で6例。3〜4枚目が相場となっている。(平幕でも4枚落ちくらいが相場なので、意外と5勝10敗は落ちないようだ)
平成30年春に両小結が大きく負け越したが、5勝の貴景勝は西3枚目。4勝の阿武咲は西5枚目とした。この場所は平幕上位に上がって来そうな星の力士が多く、その下に置くべき成績と考えて当初阿武咲は東6枚目と予想したが、上記のとおり6枚目に落とすのは珍しいケースなので、8枚目8勝の魁聖と入れ替えて5枚目に留めた。結果は、ピタリ。番付は生き物とはいえ、ブレ幅が少ない事象は傾向と対策を立てると正確になる。
平成31年初場所、東2枚目で7勝の錦木より東小結5勝に終わった妙義龍が上位に来て西2枚目でということがあった。これ単独なら、ああ三役との2枚差は2勝差でもひっくり返らないのかと思うだけだが、東3枚目7勝の正代は西に移すだけにとどめ、筆頭6勝の力士より上に置いた。同じ2枚差なのに、星の差が小さい方だけを逆転させた。これぞ三役力士優先の原則。少なくとも1枚以上は下駄を履かせているのは明らか。
三役昇進や十両陥落が絡むと違う要素が絡んでくるため、平幕内での昇降について、過去の例から目安を図る。
①平幕の大負け
まずは比較的ブレ幅の少ない負け越し力士から。
0勝
<公傷廃止前後>
全休のケースも含め、1つも白星がないと大きく番付は下がる。実際にどれくらい落ちるのか。公傷制度廃止後幕内に残留したケースを見ると、最初の例となった出島は9枚の降下で済んだが、13枚降下も4例となっており、負越15で15枚とは言わないまでも、なかなか手厳しい。公傷制度下でも61年に隆三杉が13枚落とされたのが1度、公傷制度以前は10枚程度の降下で安定していたのに比べても厳しい。ちなみに0勝15敗で幕内に残留したケースはない。
かつては上位陣と対戦した力士は十両に落とすことはないと言われたが、令和に入って前頭3枚目での0勝(休場のため上位戦なし)で、15枚もの降下で十両に転落する例が相次いだ。上位と対戦していれば陥落は免れたのかは断言できないが、そうであれば負けてもいいから出てきた方が得?
<平成以降の具体例>
5枚目は自動的に転落?、3枚目も危うい
西2枚目で全休した栃司が十両に陥落した力士の最高位だが、その後幕内定員が増えたこともあり、平幕上位からは落ちにくくなっていた。ところが平成28年の大砂嵐を皮切りに、友風、琴勇輝と3枚目の力士が陥落する例が続いた。5枚目となると8例連続で陥落し、残った例は番付削減前の昭和41年まで遡る。令和6年名古屋の阿武咲は、幕尻17枚目で6勝9敗の錦富士を残してまで陥落させられたので、もはや残る目はないのかもしれない。
1勝
10枚以上降下するケースが多い。幕内に残った例では、平成21年に豊真将が筆頭から15枚目まで落とされているのが最大。少なくとも8枚は降下している。
2勝
大きく負け越した力士は前後の力士とのバランスを取るのが難しく、かなりブレが大きい。おなじ2勝13敗でも、21年の北勝力は12枚(1→13)落とされたが、27年の佐田の富士は7枚(2→9)で済んでいる。平均すると10枚前後の転落となる。
3勝 9枚が上限?二桁降下は30年近く出ず
3勝の場合も振れ幅が激しい。コロナ禍で3勝10敗2休だった遠藤が1枚降下で済んだ例はあるが、これは若干公傷の要素と休場者続出が影響した例外と見るとして、近いところでは令和5年5月の錦富士が3枚目➱8枚目と5枚降下に留まっている。
以前から番付の加減で5,6枚降下で済むケースは以前からある。一方で昭和末期から平成初期には特に降下幅が大きく、10枚余が相場で栃司や太寿山は12枚(筆頭➱13枚目)落とされている。平成7年は3月の大至、小城錦が10枚、5月の若翔洋が11枚落とされたかと思えば、7月は栃乃和歌が6枚で済んで時津洋が9枚とブレが激しかったが、若翔洋を最後に10枚以上の降下は出ていない。
平成初期までと比べて、明らかに降下幅にブレーキをかけている。3勝12敗の場合の負越数9が上限になっているかのようだ。今後も余程編成上の都合が悪くなければ、1桁の降下に留まると見てよいだろう。
4勝 ここ10年余、7枚降下が上限?
勝越、負越の数だけ番付が上下するのが目安という定説があるが、負け越しに関しては明らかに異なる。4勝11敗だと7枚降下ということになるが、近年は実際は7枚が最大数となっている。
やはり昭和末期から平成初期は大負けに厳しく、10枚降下も続出。一方、ブレ幅は大きいが4,5枚程度の降下に留まったケースも時折あった。平成23年1月黒海が、6枚目から15枚目まで落とされて以来、8枚以上の降下はない。その翌場所の栃ノ心など、たった4枚で済むケースも時々ある。令和5年5月の御嶽海は3枚目から6枚目と3枚で済んだ。どうしても下から上がってくるが少なく、その上に置かざるを得なかったのだが、無理して上げるよりは落とさないという運用が目立っている。
レベル3ブレ2
最近ホットな話題。十両最上位の大勝ちでも全然上がらなくなった。
①十両筆頭10勝の例
十両筆頭で大勝ちすれば、どの程度の上昇が期待できるのか。そもそも前頭何枚目まであるかは、幕内定数や役力士の数によっても変わるので、過去の結果だけを見てどの辺りが相当とは言えない。その上、周囲の状況によって大きく変わる。
まず筆頭で10勝の力士を例に挙げてみよう。ほぼ昇進候補1番手。負け越して辛うじて幕内残留した力士たちよりも上に出る。運が良ければ、エアスポットになった中位あたりまで引っ張り上げられることもある。
前頭一桁まで行ったのが平成14年の五城楼。幕尻近くの力士が軒並み陥落か大勝ちかで、前頭10枚目あたりがスカスカに。十両からは5人が上がったが、その中で一番上位だったため、7枚上がって9枚目となった。
かと思えば8年初場所の玉春日のように、1枚しか上がらず幕尻16枚目というケースも。1人しか陥落者が出ず、幕尻で勝越した力士よりも下に置かれたためだ。それにしても幕尻15枚目で9勝の小城ノ花、蒼樹山より上の方が自然な気がするが、彼らは11枚目まで上がっている。
ここまでの不運ではないが、幕内力士優先の傾向は維持されていて、29年名古屋で東十両筆頭10勝の魁聖は、前頭15枚目の東8勝錦木、西9勝千代丸(東16枚目が幕尻)よりも下位に置かれている。ただし、この傾向は絶対かというとそうでもなく、27年夏に東十両筆頭で10勝の時天空は、西15で8勝の琴勇輝どころか西14で8勝の旭天鵬よりも上位になった(西16が幕尻)。20年秋の武州山も同じ成績で、16枚目8勝黒海を上回り、10枚目まで上がっている。
どうやら幕尻で勝越した力士の上がり幅が関係しているようである。成績どおり逆転させると、勝越した力士が全く上がらないケースも出て来る。順当に好成績の十両力士が上に行ったケースでは、両者ともかなり運良く昇進している。先述の20年秋の例で言えば、黒海も5枚上がっている。どちらも大幅に上がるのなら、十両とはいえ大勝ちしている力士を上げたほうが、8勝の幕内力士を上げるよりも自然である。(平成30年記)
➱上記の事情から幕内下位の勝ち越し力士の方が優先されやすい傾向は一定納得していたが、令和に入って運用バランスが極端になってきたので③で改めて分析する。
②入幕力士の最上位は
これまでで最も入幕時の地位が高かったのは、前頭6枚目。昭和43年7月の若見山、昭和45年5月の大受はいずれも前場所西十両筆頭で14勝で優勝している。だが、いずれも番付大削減直後、幕尻が12~13枚目という時代だから、上がり幅としては8枚程度の上昇。43年7月の義ノ花も同様で、2枚目の13勝で東7枚目。平成11年3月雅山も7枚目だが、当時は役力士が多くて幕尻が14枚目だから、8枚の上昇。早々に勝ち越すと、大関戦が組まれた。
上がり幅で参考になるのが平成7年7月の土佐ノ海。筆頭の14勝で10枚上がって西7枚目。上位を二子山勢が占めるため上位対戦圏内で、初日大関戦、2日目横綱戦と新入幕史上に残る過酷な序盤の割だった。
26年5月に西2の14勝で東7枚目に上がった豊真将は、12枚上昇。
時代によって平幕の枚数が違うので比較できないかと思いきや、そのほかの例を引いても余り大差はない。つまり、十両からの上昇には天井があり、上昇枚数の幅は広いが、落ち着くところは良くて平幕中位(前頭7〜10枚目辺り)。周辺の状況によって、その中で適当なところに落ち着いている。
③十両上位成績優秀力士の受難
①、②のように分析していたが、令和年間、突如(幕尻勝越>十両最上位大勝)が極端に運用されるようになった。例を挙げた方が早いので、書き出してみよう。
・令和5九
十両1琴勝峰12-3 ⇨東14(4枚UP)
⇔西15(幕尻東17)美ノ海9-6 ⇨東13
・令和5名
十両1熱海富士11-4 ➱東15(3枚UP)
⇔東前17(幕尻西17)碧山9-6 ➱東14
・令和5夏
十両1豪ノ山14-1 ➱東13(5枚UP)
十両1湘南乃海11-4⇨西14(4枚UP)
⇔西前15(幕尻東17)剣翔9-6 ➱西11
・令和5春
十両1朝乃山13-2 ➱東14(4枚UP)
十両3逸ノ城14-1 ➱西13(7枚UP)
⇔東16(幕尻東17)千代翔馬9-6 ➱東13
................................................................
・令和4夏
十両1竜電12-3 ⇨西12(7枚UP)
⇔西15(幕尻西17)王鵬8-7 ➱東13
令和4年の竜電も12枚目だから恵まれてはいないが、下に2枚あって勝ち越した王鵬よりも上回った。ところが、令和5年になると幕尻近くで9勝した力士が上に行き(流石に幕尻8勝よりは上だが)、最上位で大きく勝ち越した力士が悉く低い位置に据え置かれる。わずか数枚アップに留まるわけだ。明らかに平成時代までとは様相が異なる。なぜこういう運用にしたのかわからないが、かつてのようないきなり前頭一桁という躍進は見られないことになる。何か不都合があったのだろうか。
ちなみに例示した境目にあたる竜電、朝乃山、逸ノ城だが、揃ってコロナ禍での外出ガイドライン違反での出場停止組。処分し足りなかったわけでもあるまいて。この年はいやに最上位での好成績が目立ち、悉く小幅なアップに留まっている。
令和2年以降、新型コロナウイルス関連の休場が多発し、番付編成にて前例のない事態が次々発生している。泥縄感は否めないが、不公平のないように規則性らしきものは見えてきたので、ここでまとめる。
この措置は令和5年5月の新型コロナウイルスの5類以降後適用されなくなり、インフルエンザなどと同様通常の休場と同じ扱いになっている。
①全休(初日不戦敗も含む)
原則据え置き。但し、休場者多発で編成に窮する場合は1枚程度降下もある。
ただし、これは個人または部屋単位で隔離を要するとされた場合だけで、後遺症による体調不良には適用されない。十両だった朝乃若がこれで大きく番付を落とした。
②途中休場
8勝以上または8敗以上→その時点の勝ち数、負け数により昇降。
8勝未満または8敗未満→全休の場合に準ずる(ノーカウント)。
国指定の感染症だったので公傷扱いは妥当なところ。5類以降後はまだ例がない。
ただ、不公平感があったのは途中休場の場合だ。
7勝して優勝争いにも残っていた琴ノ若が部屋に感染者が出て休場となったが、大きく白星先行していながら全休と同じ扱い。8勝4敗から休場した翔猿は、休場者で番付据置続出の平幕上位を飛び越して5枚上がった。
さらに問題になったのは、角番大関の御嶽海の扱い。序盤黒星先行の窮地にあったが、ノーカウントで翌場所角番をやり直し(しかし幸運を活かせず翌場所陥落した。)。
感染症の運用は難題だったが、過去にも例外的編成がなされた場合がある。繰り返される可能性もあるので、記載しておこう。
①定数変更
各段の定数は、過去何度も変更されている。直近令和5年には、全力士数の減少から、三段目が100枚目⇨90枚目までに削減された。
幕内、十両の定数は、平成16年に1枚(2名)ずつ増加されて現在に至る。この時は、微増なので負け越した力士が上がったりはしなかったが、十両昇進候補が枯渇した。西7枚目で4勝3敗の須磨の富士を上げてもまだ足りず、本来圏外の幕下16枚目で全勝優勝した大真鶴が新十両を果たしている(15枚目以内の全勝優勝は優先的に上がるとされているだけで、別に16枚目より下から上げてはいけないわけではないが)。9枚目で6勝1敗の白鵬も普段なら優先順位は低いはずで、さすがのちの大横綱、運を持っている。
定数が増える分には幸運な力士が出るので問題ないが、減る分には大問題。三段目ならともかく、「合法的身分差別(?)」が残る角界において、幕内・十両の身分を剥奪されては死活問題。これが現実に起こったのが昭和42年春場所後。それも、幕内40人から34人(3枚相当)、十両36人から26人(5枚相当)。十両には幕内から6人が余分に落ちてくるので、計16人もの力士を余分に幕下に落とさなければならない。ご存知の通り、幕下以下は無給、ちょんまげ、黒廻し。ベテラン力士にとっては屈辱的なことで、実績ある力士ほど関取の地位を失うことで引退する。現在でこそ復活を狙う力士が多いが、平成初期まではその傾向が強かった。
これだけの急激な変化を伴うと、編成上異例なことが起きる。東2枚目北ノ國、東3枚目君錦ら、8勝7敗の5力士はそれぞれ1枚降下。一方で9勝以上した力士は少しは上がっている。この辺りは偶然とは思えず、調整の跡が窺える。ただ、12枚目で8勝した安芸の國はどうしても詰まったのか相対的に2枚降下、15枚目で9勝した前田川は他の例同様相対的には1枚分上がっているのだが、十両最下位が13枚目になったため、前場所なら14枚目相当となる両者の番付は幕下筆頭。勝ち越したのに陥落の憂き目に遭っている。
このように勝ち越し力士には一定配慮したようだが、そのしわ寄せで負け越し力士の降下幅は酷いことに。7勝8敗でも5,6枚。6勝9敗なら最大9枚落とされている。結果、幕下に陥落した16人のうち6人が翌場所後に土俵を去った。余りに強引。経過措置の要求も認められずこの惨状、よく労働争議に発展しなかったものだ。大リストラの甲斐あってか、18年後に無借金での国技館建設が成る。我々が我慢したから今がある、と平成のブーム時には古参親方からの皮肉が絶えなかったとか。
②大量離脱
事件などで多数の力士が一気に抜けてしまった場合、穴埋めの必要に迫られる。春秋園事件など昭和のはじめまでの力士大量離脱事件においては、番付を編成し直して対応した。八百長問題で大量に引退した際には、技量審査場所は番付ではなく「順席」として対応し、穴凹だらけの状態でそのまま開催した。
繰り上がり昇進で有名なのは双葉山。昭和7年1月は十両6枚目と発表されたが春秋園事件で大量の離脱者が出て開催できず、2月開催時に組み直された番付では前頭4枚目と入幕していた。やはり大横綱は持っている。
敗戦後の混乱の中、昭和20年10月には早くも本場所が開催されているが、参集に応じない力士も多く、穴だらけの番付に。翌場所以降軍役から復員してきたりで、異例とか論じる以前の事態となった。
平成の不祥事明けは、20名余りが一気に去った。成績は本場所同様に扱われる技量審査場所を経て、翌場所以降2場所かけて定員を埋めた。一時的に定数未満の場所を作って、むやみに実力の伴わない力士が昇進しないようにしたのは真っ当な判断だ。それでもやはり無理は出るもの。幕下筆頭の垣添は負け越したが再十両、3枚目の荒鷲も負け越しながら新十両を果たして嬉し恥ずかし。
③公傷制度
平成15年までは、土俵上で新たに負った重い怪我に限り、翌場所は全休しても番付を据え置かれることになった。昭和40年代に三役経験もある龍虎が休場が続いて幕下まで転落したことがきっかけと言われている。それだけ三役経験者が関取の地位を失うことは意味は大きかった。近代スポーツとして合理的な制度であった。当初は重傷度合いも厳しくみられ、右肩脱臼明けの千代の富士が公傷を認められず、慌てて場所途中から復帰したこともあった。しかし、判断基準が明確化してくると、無理した者がバカを見る制度になっていく。負傷した場所は休場も負けと同じカウントになるので、無理して出る力士もいたが、負傷後1日でも出場すれば公傷認定されなくなるため、悪化させるくらいならと休む力士が増加。判で押したかのように全治2ヶ月の診断書が出てくるようになった。特に大関は2場所連続負け越しで陥落なので、あと1,2勝で勝ち越しならともかく、負傷した場所で無理するメリットもなく、公傷申請が相次いだ。平成14年名古屋は1横綱3大関に平幕7人が休場、十両5人が公傷全休。翌年も休場者が目立ったが、大関武双山の申請が却下されるなど厳格化に舵を切り、ついに16年から廃止となった。上記の幕内・十両1枚ずつの増員が緩和措置ということだが、全く釣り合っていない。その後、本当の重傷で長期休場する力士が後を立たず、制度復活を望むことは根強く、横審が提起したりもするが、公平性を重視する協会は認めようとしない。
この公傷制度下、当初は平幕でも張り出される形で番付を維持。のちにその運用は廃止されている。
公傷制度廃止後、コロナによる隔離が必要な場合を除くと、貴ノ岩の休場の例がある。大騒動の結果、加害者の日馬富士は引退。貴ノ岩については、当初診断書の提出なしで休場した11月場所は全休扱いとなったが、真相が明らかになった翌場所の全休時には十両3枚目から「陥落はしない」という名言をもらい、翌場所十両12枚目で復帰した。最近の例だとほぼ幕下に落とされているだけに、一種の公傷扱いとは言えるだろう。
④番付外からの復帰力士
春秋園事件で大量離脱した力士の中には、復帰してくるケースも多々あった。その際は別席として番付には載らず、離脱前の階級に参加した。優勝者一覧で男女ノ川が別席とされているのは、これである。兵役から帰ってきた力士も、全くそのままではないが以前の番付を前提に復帰した。
その後は再出世はあっても(一度破門された玉ノ海は極端な例だが)、番付から消えた関取がいきなり元の地位で復帰してくることはなかったが、平成25年秋、八百長事件で解雇された蒼国来(現荒汐親方)が裁判に勝って復帰を認められ、約2年半ぶりに復帰。最後の出場場所では東前頭16枚目で8勝7敗。技量審査場所では引退勧告を受け入れた力士は番付に載っていたが、解雇者は抹消された。蒼国来分と思われる西15枚目は空白だった。復帰した際の番付は、その西前頭15枚目となった。
今後も関取がしばらく消えて戻って来るケースはそうそうないだろうが、元の身分を保証するのが相当な場合は同じ番付で復帰ということになるだろう。